「陛下に申し訳ない」のメンタリティ

 1945年8月15日、「玉音放送」の後に、一部の「帝国軍人」や、在郷軍人を中心に組織された「翼賛壮年團」の指導者たちが「悔しい」と声を上げて泣いたようです。

 でも、それを見ていた若者や子供たちの多くは、嘘をつかれていたような、何とも白けた思いだったようです。少なくとも私の両親は揃ってそうでした。

 終戦を境に、世間や報道の論調は手のひらを返したように「戦後民主主義」一色となります。

 同時に、戦時中威張り散らしていた連中は多くが静かになった。

「下士官や将校の、無茶な命令や非道な要求で命を落としていった戦友が多数あるというのに、こいつらは何を考えて、幼稚な涙を流しているのだろう・・・」

 当時20歳だった私の父は、前年に最下層の兵士として学徒出陣、満州に展開していました。

 8月8日、突如としてソ連軍の攻撃に遭い、玉音放送は耳にしていません。9月5日まで戦争は続き、幸か不幸か生きて捕まったので、ソ連の強制収容所に入れられました。

 そこで見た、かつての上官たちの無責任ぶり、無自覚ぶりにあきれ果てたこと、ああいうことは人間としてやっちゃいけないと、幼い私に幾度か話してくれました。

 実際、そういう「無責任に転向」したつもりの人の中には、戦後数年してBC級戦犯として逮捕され、捕虜虐待などの罪で命を失う人もありました。

 また子供たちは戦時中とうって変わって、元は「鬼畜米英」だったはずの米兵のまわりに集って「ギブミー・チューインガム」と物乞いするようになるわけです。

 私の両親は大正14年と15年の生まれで終戦時には20歳と19歳。

 子供でもなければ大人でもなく、父はシベリア抑留、母は空襲で全身炭化火傷を負い、半死半生で病臥しつつ何とか生き長らえたので、いま私がここに存在するわけですが・・・。

 戦時の風潮にのって都合よくやった連中が、軒並み「無責任」で「無自覚」だと、本当に最晩年まで(晩年の方が頻繁だった気がします)正味で怒っていました。

 いずれも「非常にバカバカしい」」「戦争はくだらないもの」「バカバカしい」「絶対やってはいけない」を繰り返していた。

 実際、両親とも、人生を戦争に奪われたといって過言でありません。

 その親から聞いてきた「無自覚」「無責任」さらには「自分勝手な涙」で「悔しがる」ナンセンスが、斎藤兵庫県知事と重なるのは、どちらも似たような人材育成失敗で出来上がった代物と思われるからです。

 徹底した「他律性」、つまり、自分の中に確固たる価値の基準がなく、何かを引き受ける覚悟というものが何もない。何かを本当に成し遂げたという経験を持たない。

 そして「言われたことを繰り返していればよい」という「思考停止」「判断不能」「先例墨守」。

 斎藤氏は、日本史上かつて存在しない飛びぬけて暗愚の首長だと思いますが、こういうタイプの日本人は、実は歴史を振り返ると決して珍しくありません。

 前回稿で「サイコパスではない」と指摘したように、実際みっともない幼稚な表情で、人前で泣いて見せる程度には平凡でどこにでもいる、普通の人間に過ぎません。

「斎藤元彦」でまたしても露呈した日本人の本質的なウイークポイント、今回は私の論旨というより、敬愛する野中郁次郎さん以下の筆者チームによる名著『失敗の本質』に即して、客観的に検討してみたいと思います。