「斎藤元彦」の作り方

「兵庫県」での惨状を巡っては、連日様々な報道が大量にリリースされるわけですが、私の論考は、他と一点、全く違う点があることをすでにお気づきかと思います。

 それは、私が「斎藤元彦」のような人材を作り出しやすく、また実際に作り続けてきた「東京大学」という組織に属し、今現在も日々そのようなリスクを持ちかねない若者と接し、決してあのようになってはいけないと、指導に汗を流していることです。

「斎藤知事」は確かに東大のOBではありますが、あまり優秀な方とは言いかね、ダメ学生の経験もあることなどは、「エリート官僚」云々というステレオタイプが多い中で、際立って異なる点と思います。

 実際、彼は1浪1留で2年すべっており、特段のエリートではありません。こうした観点から、反語的に「斎藤元彦の作り方」を書いてみましょう。

α:理由や論理を問わず、頭ごなしのがり勉を強要し、模範解答と一言一句たがわぬ答えを出したら、無意味に褒めちぎって、プライドをくすぐり「他者の評価が第一」という価値観を植え付ける(他律性)。

β:自分の頭で考えて、何かを本当に作り出すといった経験は、20歳以下では一切させない。規則の通り右から左、縦のものを横にするだけでいいと信じ込ませ、余暇はくだらないエンターテインメントで空費させる(非生産性)。

γ:決まった通りの手順さえこなしていればよく、それに関連する他の人の思惑とか気持ち、感情などの面倒くさいものは切り捨てる。

 都合がよければすべてよし。「道義的責任? なんのことですか?」といった無責任を素にさせる(非倫理性)。

 ざっとこの3つでしょう。

 実は、いまのような受験のシステムを続けている限りは、こういうタイプの人間が育ってきやすいわけです。

「東大入試」は、残念ながら模範解答が存在する客観テストで、必ず過去に解かれた問題の焼き直ししか出題できず、思いやりも配慮も、コミュニケーション能力なども原則問われません。

 残念ながらこの本質は、明治大正から昭和20年8月15日を挟んでも、21世紀の今日まで、困った一貫性を確認することができてしまう。

 東大に入ることを目的にして、やってこられてしまうと「東大以降伸びない若者」が系統発生しかねない。

 そして彼らの一部には、明治大正昭和期の日本官僚と同様、柔軟な思考を欠き、他律的、相対評価的、翼賛付和雷同的なリスクを懸念せざるを得ない。

 私たち教官は、何とかしてそういうことのないよう、工夫を凝らすわけですが、多勢に無勢という現実もあるわけです。

「他律的」で「パターンの正解を引き写せば何とかなり」、他の人を思いやるといった柔らかい心など出世にも金儲けにも役立たないと教え込めば、ああいう人材はそこそこ効率的に生み出せてしまう。

 では、どうして帝国陸海軍や大日本帝国戦争指導部で国を破滅させたような人材育成が、21世紀の日本でも続いているかと問われれば、その本質は、「戦争責任を他律的にうやむやにした」ツケが、今回ってきているからと言えるでしょう。