(歴史ライター:西股 総生)
至れり尽くせりの名城の何が問題なのか
戦国時代、日本全国には土造りの城が何万と築かれたが、東京都八王子市にある滝山城は、そうした土の城の最高傑作といえる。なぜ最高傑作なのかといえば、まず城域が広大で、かつ土塁や空堀が巨大、しかも縄張が複雑だ。
いや、広大な城域に無数の曲輪を複雑に配する城、目を見張る巨大な土塁・空濠を擁する城なら、全国にはもっと凄い城がある。滝山城の凄さは、そこではないのだ。縄張が緻密かつ頭脳的なのである。
通路を効果的に折り曲げたり、分岐・合流させた上に、枡形虎口・馬出・横矢掛りといった技巧を駆使し、広大な城内を迷路化している。侵入した敵を分断して、狭いところ、狭いところへと追い込み、局所で数的優位を作り出して封殺する。あるいは、一斉射撃を浴びせて敵をひるませ、側面から逆襲を仕掛けて突き崩す。
そんな戦い方を想定した仕掛けが、広大な城内にぎっしりと詰め込まれているのだ。土造りで、ここまで徹底的に作り込んだ城は、他に見たことがない。
おまけに、城跡は都立自然公園となっていて散策路などもよく整備されている。八王子駅からのバスも一時間に4~5本は出ているし、入口には駐車場も完備されているから、交通の便もよい。至れり尽くせりの名城なのである。では、何が「問題」なのか。
城の歴史を、ざっと整理してみよう。滝山城は戦国北条氏一族の重鎮、北条氏照の居城として知られている。氏照が滝山城に入った時期については諸説あるが、1561~67年(永禄4~10)頃と考えられている。以後、1587年(天正15)頃に八王子城を築いて移るまでの約20年間、滝山城は氏照の本拠であった。
この20年ほどの歴史で、ハイライトとして語られるのが1569年(永禄12)の攻防戦である。この年、武田信玄は大軍を率いて関東に侵攻し、上野から武蔵を蹂躙して小田原に迫った。武田軍の侵攻経路上に位置していた滝山城も、猛攻を受ける。
多摩川対岸の拝島に本陣を据えた信玄が見守る中、武田勝頼らを中心とした攻撃隊が滝山城に襲いかかり、防禦線を次々に攻め破っていった。しかし、氏照は城の中心部に残兵を結集させて頑強に抵抗したため、信玄もついにあきらめて攻囲を解き、他へと転進していった。
とまあ、軍記に書かれた攻防戦の様子は、いささか“盛られて”いるようだが、あらましは史実と認めてよいだろう。では、何が問題かというと、この攻防戦を現地の遺構と重ね合わせて解釈してしまう人があとを絶たないのだ……武田軍はこのあたりまで攻め込んだが、ここの虎口が堅固で突破できなかったのだろう……といった具合に。
ところが、史料を調べてみると、1581~82年(天正9~10)に氏照が、滝山城で大がかりな改修工事を行っていたことがわかる。また縄張を見ても、北条氏が対豊臣戦に備えて構築・改修した城と共通する要素が多い。滝山城は1580年代に全面リニューアルされた、と考えて間違いなさそうなのである。
この件は、以前に筆者が『東京都の中世城館(主要城館編)』(2006年)の滝山城の項を執筆した際に、指摘しておいた。東京都教育委員会から公刊された報告書だから、滝山城の基礎文献の一つなのだが、どうも皆さん、あまりお読みになっていないらしい。
そんなわけで、滝山城の遺構は大変すばらしいが、1569年(永禄12)の攻防戦と重ね合わせると、あらぬ幻を見てしまうので、ご用心、というわけだ。