アイヌ民族が受けてきた差別の歴史

 北海道には古くからアイヌ民族が定住し、独自の文化を育みながら暮らしていました。

 江戸時代には北海道南部に拠点を置く松前藩が、アイヌと基本的に対等な立場で交易。藩の家臣や商人たちは、米や酒をアイヌの獣皮や干鮭などと交換していました。北海道が「蝦夷地」と呼ばれていたころのことです。

 北海道の本格的な開発が始まったのは明治時代でした。欧米列強がアジアに進出し、ロシアも南下政策を強めるなか、明治政府は北辺の守りを固めるため本州から北海道への大規模な移住政策を進め、北海道の開拓を進めました。蝦夷地を「北海道」と改名し、官庁の開拓使を置いて近代国家・日本の一部として管理する政策を取ります。

 アイヌ民族を含め国民は「皇国の臣民」と位置付けられ、アイヌも「平民」の戸籍に組み込まれました。独特の風習を禁じ、日本語を学ぶよう推奨するなどの同化政策が推進されたのです。

 また明治政府は、全国的な納税制度を整える狙いもあって、アイヌが使っていた土地にも所有権設定を進めました。アイヌ民族にはそもそも個人が土地を所有するという考え方がありません。そのため、所有権を取得した者はほとんどおらず、使える土地はどんどん狭くなっていきました。狩猟や漁労も規制され、アイヌの暮らしはどんどん苦しくなります。

 明治32年(1899年)になると、同化政策の集大成として「北海道旧土人保護法」が制定されました。この法律は、アイヌ民族に土地を与えて農業を推奨するとしていますが、アイヌへの給付地は北海道全体のたった0.1%。それも耕作に適さない土地が大半だったとされています。こうした政策の結果、アイヌ民族はやせ細った土地に追いやられ、貧しい暮らしを強いられていくことになりました。

 第2次世界大戦後、大陸から引き揚げてきた人々の受け入れや食糧供給基地として、北海道開発は加速します。鉄道や高速道路などの交通網が発達する一方、農業用地が急増し、漁業や森林資源は減少。経済成長と開発の傍らで次第にアイヌ民族の存在感は薄れ、少数民族の文化と権利をどう保護するかという課題も後回しにされるようになっていったのです。