(町田 明広:歴史学者)
開国後の情勢とサトウの来日
1859年(安政6)、江戸高輪の東禅寺に駐日イギリス公使館が開所された。イギリス公使オールコックは、1861年(文久1)7月の第1次東禅寺事件(水戸藩浪士ら14人が江戸高輪の東禅寺にあったイギリス仮公使館を襲撃し、書記官オリファントや通訳官モリソンらを負傷させたが、警備の幕兵により殺傷・逮捕された事件)の後、公使館を横浜に移動した。
オールコックの賜暇帰国中、代理公使ニールは再び公使館を東禅寺に移した。しかし、1862年(文久2)6月、第2次東禅寺事件(松本藩士伊藤軍兵衛が単身、自藩が東禅寺警備のために多大の出費を要するのを憂い、警備責任を解こうとして仮公使館内に侵入しイギリス人水兵2人を殺害して自殺した事件)に遭遇した。
そのためニールらは、再び安全な横浜に帰還せざるを得なかった。幕府は、品川御殿山に新公使館を建設しようとしたが、落成直前の1863年(文久3)1月31日、長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞らによって焼き打ちされた。これによって、建物は全焼してしまい、計画は頓挫したのだ。
イギリス公使館では、日本語書記官ユースデンが中心となって、オランダ語畑の通訳官が幕府との外交交渉を担当していた。しかし、外交交渉の増大に伴い、日本語を直接英語に翻訳できる通訳官が必要とされた。日本語を駆使するサトウの登場が、切望された背景がここにある。
1862年6月、第2次東禅寺事件が勃発し、外交交渉がいっそう頻繁になった。ニールは、北京にいる日本語専攻の通訳生を呼び寄せることにし、