(歴史ライター:西股 総生)
お金以外になかったもの、地方都市
1月22日掲載の「『光る君へ』で話題、平安貴族にお金持ちはいなかった…という意外な事実」で、平安時代の日本にはお金がなかった、という話を書いた。同じように、どの社会でも当たり前に存在していそうで、実は平安時代には存在していなかった、というものが他にもある。たとえば、地方都市だ。
平安時代の日本にあった都市は、首都としての京と、副都としての奈良、あとはせいぜい九州の大宰府くらいなもので、ほかは全部、田舎であった。
2月12日掲載の「平安貴族の収入源とは?彼らの栄華を可能にした“中央集権システム”の本質」で説明したように、この時代は極端な中央集権体制であった。もともと工業や商業が盛んでなかった日本列島に、律令国家という中央集権体制を強引にねじ込んだ結果、全国の土地と人民が産する富を、ひたすら中央に吸い上げる体制ができあがってしまったのだ。
もちろん、皆さんが教科書で習ったように、律令国家は地方の国々に国府と国分寺を建設し、国府には国衙や国司の館(たち)が置かれていた。館とは、中央から派遣された国司が任地で暮らすための公館で、国司や役人が執務する官庁が国衙(こくが)である。
国府とは今でいう県庁所在地のようなものだから、本来は都市であるはずだった。けれども、国府が地方都市として発展することはなかった。なぜだろうか。
もともと律令国家の中央集権制というのは、隋や唐といった先進国へのキャッチアップを指向した体制だった。しかし、隋や唐などとは社会基盤がことなっている日本に、いきなりグローバルスタンダードを持ち込むことには、本質的な無理があった。
ゆえに、律令国家の基本であるべき税制や軍制、官僚制などは額面どおりには機能しなかった。そして、制度がタテマエ上機能しているように見せるため、現場で帳尻合わせを行って取り繕うことが多くなっていったのだ。
こうしたシワ寄せをモロに受けていたのが、地方行政の現場だった。結果として、平安時代の中頃、具体的には10世紀の前半から中頃までには、国衙も国分寺も廃れてしまっていた。国を構成する郡にも、郡衙(ぐんが)・郡家(ぐうけ)と呼ばれる役所が置かれていたが、これも廃れてしまう。
もちろん、国司は中央から赴任してくるから、彼らが宿泊したり執務するための施設は何かしらあったはずだ。書類上は、国衙には各部局があって担当の役人がおり、郡にも郡司(ぐんじ)がいて業務に当たっている。しかし、遺跡としての国衙や郡衙は10世紀にはみな廃絶しており、施設としての実態を失っていたことがわかるのだ。
おそらく、豪族などの私宅がそのまま執務室となったり、国司の宿泊場所となっていたのだろう。書類に出てくる国衙の各部局は、ペーパーカンパニーのようなにちがいない。また律令国家は、京と地方とを結ぶ東海道・東山道・北陸道などの大がかりな官道を建設した。現代の高速道路に当たるものだが、これも廃れてしまった。
考えてみれば当然のことで、国衙や国分寺・官道のような立派なハコモノは、維持管理のために相当のコストを要する。しかし律令国家は、ワク組み(制度)とハコだけ作って、税だけを吸い上げ、運用は現場に丸投げしてしまったのだ。
これでは、豪華なハコを維持できない。施設が老朽化したり、火災や天災で失われればそれっきりだ。中核となる官庁や寺院が廃れるのだから、国府も衰退してしまう。こうして平安時代の地方社会は、ひたすら吸い上げられる存在となる。地方都市など、育ちようがなかったのだ。