京都御所 写真/hana_sanpo_michi/イメージマート

(歴史ライター:西股 総生)

「律令制」という中央集権的システム

 先日掲載した「『光る君へ』で話題、平安貴族にお金持ちはいなかった…という意外な事実」で説明したように、平安時代の日本は貨幣経済ではなく、物々交換経済であった。平安貴族たちは、そんな原始的な経済システムに拠って立ちながら、栄華をきわめたわけである。

 彼らが贅沢な暮らしを実現できた基盤は、7世紀後半から8世紀の初めにかけて形成された、「律令制」という中央集権的システムにあった。では、なぜ中央集権的システムによって、貴族たちは繁栄できたのだろうか? 

 まず、ご理解いただきたいのは、古代の日本で国家が成立する過程は、決して日本列島の閉じた社会の中で起きたことではなかった、ということだ。日本の国家形成は、常に東アジア世界(大陸や朝鮮半島)と密接にかかわって進行した現象なのである。

京都御所 写真/西股 総生

 日本に最初に誕生した統一国家(らしい集合体)である大和政権は、昔からの豪族たちの連合によって推戴される王権であった。その大和政権は7世紀の後半、朝鮮半島への軍事介入に失敗し、唐・新羅の侵攻という脅威に直面することとなった。

 旧来の豪族連合軍では対抗できないことを悟った大和政権内の進歩派たちは、天皇に権力を集中して〝国軍〟を創設する必要がある、と考えた。要するに、ガラパゴス化した旧体制から脱却して、グローバルスタンダードを目ざそう、というわけである。

 彼らは大化の改新や壬申の乱をへて、唐を手本とした中央集権国家の形成へと踏み出していった。この中央集権国家を実現するシステム(制度・法体系)が、すなわち「律令制」である。また、新体制移行に際しての勝ち残り組が藤原氏、というわけだ。

写真/西股 総生

 さて、天皇に権力を集中して〝国軍〟を創設し、運用してゆくためには、国家としての「財源」が必要となる。政権を支える豪族たちが、めいめいのやり方で自分たちのテリトリーを支配し、アガリを取り立てる、という旧来の方式ではダメである。

 一律の基準で全国から取り立てた〝国税〟を中央政府に集め、〝国家〟の必要に応じて天皇が分配する、というシステムに切り替えなくてはならない。こうして、全国の土地と人民は天皇家の所有と定められ、全国一律の徴税基準が設けられることになった。これが「公地公民制」だ。

京都御所御池庭 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 一方、自分たちのテリトリーを自力で治めていた豪族や、配下の支配階層たちは、都に住んで天皇からサラリーを与えられる、廷臣や官吏となった。つまり、中央に吸い上げられた富を都で消費する階級が貴族なのである。

 豪族たちのいなくなった各地方は、中央から派遣された国司が治める。「治める」といっても、国司たちの仕事=徴税のようなものだ。ただし、貨幣経済ではないから、税といっても治めるのは現物である。実際には米穀類や、地方ごとの産物、布や絹といった物品が税として納められ、都に送られることになる。

 逆にいうなら、全国各地の人民が生産した米穀類や反物、様々な産品が、都へ都へと吸い上げられるわけだ。こうして全国から吸い上げられた税を、富として都で消費するのが貴族たちである。そして、集積された富を天皇のもとで山分けするための分捕り合戦が、貴族たちによる宮廷政治というわけだ。

京都御所 朱塗りの回廊 写真/ogurisu/イメージマート

 さらに貴族たちは、あらゆるやり方で法の網の目をかいくぐったり、抜け穴を見つけたりして、私腹を肥やそうとした。たとえば、開発特区制度を利用して国税の一部を免除してもらい、免税分を自分の懐に入る。この利権システムを「荘園」という。

 おわかりだろうか。お金を金庫に積まなくても、国税を山分けしたり、土地からのアガリが定期的に入ってくる利権システムを手にすれば、富を消費する側でいられるわけだ。

「中央集権体制」という言葉を、「中央が一元的に政策を決めるシステム」だと思っていたら、おめでたいことだ。それは本質を忘れた、表面的な理解でしかない。「中央集権体制」の本質とは、中央が地方から富を吸い上げるシステムに他ならない。