伊達晴宗が「竹に雀」を使った理由

 上杉を継がなかった時宗丸こと伊達実元は、稙宗と晴宗がまだ争っていた時期である天文16年(1547)10月、すでに元服して21歳の若武者として、兄の晴宗の下命を受け、西根の地を攻撃した(『伊達正統世次考』)。どうやら時宗丸こと実元は伊達天文の乱の終わり頃までに、稙宗のもとを離れて兄の晴宗のもとへ転属したようである。

 ここまで稙宗は伊達の家紋を旗や幔幕に使っていただろう。対する晴宗は、同じ家紋の使用を遠慮したのではないだろうか。その理由は、敵味方ともに同じデザインを使っていては軍事的混乱を招くことと、伊達家の内部抗争があからさまで外聞が悪いばかりか、互いに大義を薄めてしまいかねないことにある。これなら自分から家紋を使わないほうが得策である。

 そこへ弟・実元が父を見限って、自分の側に転属してきた。これをきっかけに、実元が許された「竹に雀」の旗を流用したとすれば、その経緯を整合的に理解できる。そうでもなければ、いくら名家のものとはいえ、他国の家紋を自分のものにしてしまうのは、不思議すぎるからだ。

 稙宗と晴宗は、時宗丸こと実元を越後に「送り出す/送り出さない」で対立した。稙宗陣営にすれば、手中の時宗丸の存在そのものに大義の源泉があった。それが晴宗の側に移ってしまうと、稙宗は大人気ない親子喧嘩をしているだけの老人となってしまう。

 そこで晴宗は、この相剋を早く終わらせることを考えて、「時宗丸こと伊達実元は我が元にあり」と顕示するべく、「竹に雀」を自らの紋様として掲げたのではないだろうか。

 そして稙宗と和解して天文の乱を克服した晴宗は、伊達家の惣領として歩みを進めていく。晴宗はその後も「竹に雀」の家紋を伊達のものとして使い続けていった。ただ、経緯が経緯であるだけに事実がそのまま伝わらず、近世の文献も確たる説明ができなくなってしまったのではないかと見ている。

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