上杉謙信の家紋に対する思い

『東山殿御紋帳』越後長尾家の家紋

 上杉謙信は、もとの名前を長尾景虎という。守護上杉家の家老を勤める長尾一族の1人で、しかも複数の兄がいる末弟に過ぎなかった。ところが兄たちは相次ぐ謀反にまともな対応ができなかったため、実力と人望のある謙信が長尾一族の当主に就任することになった。

 それから10年以上過ぎ、謙信に転機が訪れる。関東管領の上杉憲政から家督を譲られ、上杉一族の仲間入りを果たしたのだ。

 こうして謙信は、長尾一族の当主であり、上杉一族の当主でもあるという奇妙な立場に立つことになった。ところで、問題は家紋である。

 さて謙信は、長尾と上杉どちらの家紋を使うべきなのだろうか?

大事なのは格

 家格でいうと、上杉の方が長尾より高い。ならば答えは一択だと思う人は多いだろう。ドラマや漫画の謙信は「竹に雀」の家紋を使っている。

 だが、実際にはどちらの家紋も使わなかった。「謙信に旗なし」と言われ、後継者である上杉景勝も謙信同様、旗や幔幕に家紋を使わなかった(『管窺武鑑』)。謙信と景勝の軍事史料を見ても、そこで使われているのは、毘沙門天や紺地日の丸の紋様であって、家紋は一切使われていない。ぎりぎりで一部の遺品に、家紋を施しているのを確認されているだけである。

 これには理由がある。

 謙信が長尾の当主になったのは、かなり不本意な事情によるものだった。黒田秀忠という権臣の横暴を当主である兄の長尾晴景が抑え込めなかったため、ほかの家臣たちに擁立されたのである。その後、上杉の当主になったのも、関東の諸豪に強いられてのものだった(2月25日発売の『謙信越山』に詳述)。

 自分から求めて就いたわけではないので、途中で当主を辞めたいと言い出して隠退を図ったり、上杉の家督継承は、あくまでも代打であるという意味で自分は「名代職」だなどと述べたりしている。謙信にしてみると、やりたくてやっているわけではないので、これを「野心による簒奪だ」と誤解されるのだけは避けたかったことだろう。

 そこで、惣領の証となる家紋の使用を嫌がったのではなかろうか。

 兄の晴景と謙信は、過去に抗争した形跡がある。この不本意な争いの時、謙信はまだ兄に従属する立場であった。だから、長尾の家紋を勝手に使うことはできず、当主となってからもそのポーズを通したものと思われる。

 また、上杉の家督を譲られた時も、すでに朝廷と幕府から「紺地日の丸」と、「五七桐紋」の使用許可を貰っていた。どちらも上杉の家紋より、格が上の紋様である。だからわざわざ簒奪者と誤解されるリスクを冒してまで上杉の家紋を使う必要がなかった。このため謙信はどちらの家紋も使わなかったのである。

 それでも大将ならば、軍旗と幔幕に大将の居場所を示すオリジナルのシンボルが必要だ。そこで謙信は、自分専用の個人的デザインを採用した。「毘沙門天」を示す『毘』旗や、「懸かれ乱れ龍」と呼ばれる『龍』旗である。