仙台城跡(青葉城)の伊達政宗騎馬像 写真:shima_kyohey/イメージマート

(歴史家:乃至政彦)

戦国時代発祥の言葉や諺

 いつも小難しい話ばかりさせてもらっているので今回は息抜きというわけでもないが、戦国にまつわると見られる言葉や諺(ことわざ)について、それぞれの語源を気軽に紹介することにしよう。

●伊達者

 一般に、派手でかっこいい人という意味で使われる「伊達者(だてしゃ)」という言葉がある。その語源は、伊達政宗にあると言われている。

 朝鮮出兵の頃、政宗は豊臣秀吉の要請で、本営の名護屋城(佐賀県唐津市)まで武者行列を進発させた。仙台藩の正史『伊達治家記録』は、その時の伊達軍の武装がとても華美だったため、「京童の諺に、“伊達者”と云い習わし、これよりして、“伊達をする”と云ふ詞は始まれりと云ふ」と記述している。

 特に政宗自身の装束は、目を見張るものがあり、黙って行列を眺めていた京都の見物人たちも政宗の勇姿(おそらく三日月の前立てで有名な「黒漆五枚胴具足」を身につけていただろう)を見て、大きな歓声をあげたと言う(『伊達日記』)。

 ちょっと出来過ぎた話に思えるかもしれないが、政宗自体が出来過ぎたことを本当にやってしまう男なので、簡単に否定することはできない。現段階でこの逸話を相対化する批判材料も見つかっておらず、ひとまず言い伝え通り信じていいだろう。

●ヤマカン

 勘頼みで万一の成功を狙う意味として使われる「山勘(やまかん)」という言葉がある。

 この山勘について、「実は“山勘”と書き、武田信玄の軍師・山本勘介(勘助。1500〜61)の読みに語源があるのだ」と唱える人もいる。だが、そのような話は江戸時代までに見られず、積極的に信ずるには難がある。牽強付会──後付けで都合よく創作された解釈だろう。

山本勘助の肖像画

 そもそも山本勘介は、近年イメージされる「軍師」ではなく、あくまでも「足軽大将」だった。生前、軍師らしく扱われた形跡もない。たしかに勘介には築城と軍学の知識があり、京流の武芸にも通じていたが、主君の信玄は他国出身の老人の「山勘」に依存するほど、非論理的な武将ではない。勘介もまた、直感だけで適当な提案をする人物ではなく、原則として信玄への助言は明確な論拠を述べた上で行なっている。

 山勘は山本勘介の略称ではなく、「山師」という言葉から生じたものであろう。

 山師は江戸時代に定着していた言葉で、“江戸を作った男”とも呼ばれる江戸初期の河村瑞賢(1618〜99)という「川師」(治水事業で名を挙げ、財を得る人)が、信濃の木曽山から建築資材を集めて大成功したことから「山師」の言葉が生まれたという。

 やがてその語源が忘失され、「山師」の意味は「向こう見ずに僥倖を希うもの」という解釈に変わってしまったのだという(堀成之『古今雑談』1892年)。そしてその直感に頼る様子を「山勘」と呼ぶようになったと考えるのが、勘介説より説得力あるのではなかろうか。