『大日本歴史錦絵』より「川中島大合戦之図」

(歴史家:乃至政彦)

決戦は両雄の宿命

 とりあえず、真否未詳の通説を話の主軸に置いて述べていこう。

 北信濃の海津城(貝津城。現・松代城址)は武田信玄が取り立てた平城である。

 川中島一帯の支配力を強めるため、築城したというが、その狙いは北の越後にある上杉謙信に対する備えであった。

 信玄と謙信はもう何年も信濃の地をめぐって衝突を繰り返してきた。そのたびにお互いが領有権を主張するかのように、旭山城、葛山城を取り立て、和睦して破却するなどしてきた。

 これを見かねた将軍足利義輝が、永禄元年(1558)、両者に停戦を求める。義輝は謙信に贔屓しようとしたが、信玄は見返りとして信濃守護職を要求。将軍がこれを許す形で、川中島をめぐる攻防は一件落着した──かにみえた。

 だが、信玄は信濃守護職の肩書に乗って、川中島支配の親上杉勢力を駆逐せんとする。その政治的策源地となったのが海津城である。

 永禄4年(1561)8月、謙信は信玄の動きを幕府に対する反逆とみたらしく、憤りを強めて越後全土の将士をかき集めた。上杉軍は信濃へと大移動するが、海津城を横目に進み、川中島を横断する形でそのまま妻女山へとのぼって、山頂に陣場を構えた。いわゆる妻女山布陣である。このままでは海津城が危ない。甲斐にいた信玄はすぐに軍勢を催し、川中島へと向かった。

 かくして信玄の平城・海津城と謙信の陣場・妻女山の対決がはじまる。

地域紛争を超えた会戦

 ここで両者の対決は、これまでの単なる領土紛争の枠を超えて、大名と大名の決勝会戦にいたる。つまり小さな勝利を得る(ひいては優位に立つ)ための小競り合いではなく、相手を討ち滅ぼすための戦争である。第四次川中島合戦は第一次から第三次と戦った地こそ同じだが、その動機が根本から異なるのである。このとき謙信は関東を経略して、大規模な動員力を得たあと畿内へと進出し、幕府を保護する戦国時代を終わらせる巨大な戦略を企んでいた。

 しかしそれには信玄の存在が邪魔であった。ゆえに上杉陣営は信玄の親類筆頭である勝沼氏に内応の謀略を仕掛け、クーデターを狙わせていた。信玄の首を挿げ替えれば、その間に関東計略を一挙にすすめられる。

 しかし諜報戦においては武田陣営が上だった。たちまち露見した謀叛は、勝沼一族の粛清という形で未遂に終わったのである。信玄は「謙信の大望などどうでもいいが、その途上で我々が滅ぼされてはたまったものではない」と唇を震わせたであろう。その直後である永禄四年五月、信玄は、もし甲府で政変が起きていたらこれに呼応していたであろう海津城・川中島周辺で不満を抱える者たちの誅殺に乗り出す。