海津城と妻女山の地理関係

 川中島地帯を一望しながら背後を山脈に守られた海津城の立地は、地政学の観点からみても秀でていて、北信濃支配に効果的な役割を果たしている。その証拠に信玄は、謙信が関東でうろうろしている隙をついて、川中島一帯の不満分子を誅殺することができた。戦国時代の大名は自分の側についた領主を守るのが最重要課題であり、これに失敗した謙信の顔に泥を塗ることができた。だが、それは同時に虎の尾を踏む振る舞いでもあったようだ。

 かくして謙信は妻女山に布陣する。しかし、この陣場は昨今あらゆる研究者が指摘するように、非合理的な地であった。妻女山と海津城の距離はたしかに近い。だが、海津城を攻める布陣地としては微妙である。こんなところに布陣したところで、海津城が危機感を募らせるとは思えない。

 そもそも謙信率いる上杉軍は総勢1万3000人だったというが、妻女山はこれほどの人数を収容できる地ではない。ただの小山だ。確かに現地からは川中島の平野を見通せる。海津城の動きを見ることもできる。しかしそれ以外に、こんなところへ布陣する利点はないのだ。よく言われるように、越後からの支援物資や使者を往来させる道も簡単に塞がれかねない。そうなれば孤軍となって自壊するのを待つばかりだ。それが嫌なら下山するしかないが、海津城は士気の落ちた上杉軍を追撃するもよし、放置して安全策を採るもよし。

 これでは三国時代の馬謖以下だ。まともな戦争指導者なら、自らの本陣は別のところに置き、妻女山には少人数の部隊を駐屯させただろう。こういう考え方に対して、反論として「謙信は普通の武将ではない」として天才的な考えがあったと考え、凡人のうかがい知れない布陣を考えたのだとする主張もあり、後付けの理由が無数に付されているが、もう少し現実的な解釈に立ち戻る必要がある。

謙信と信玄、伝説の一騎討ち

 その後、川中島に現れた信玄は海津城に入ると、軍勢を二手にわける。本隊8000を上杉軍の退路近くとなる八幡原に置き、別働隊1万2000を妻女山に向かわせた。俗に「キツツキ作戦」と呼ばれる作戦だが、実際はよくある陽動である。謙信は武田軍が近づく前に妻女山をくだり、全軍でもって八幡原の武田軍本隊を攻撃したという。奇襲であった。

 上杉軍1万2000(1000人は妻女山に残した)。対する武田軍本隊は8000。その数、1.5倍差。謙信の猛攻で信玄本隊はたちまち危機に陥った。このとき謙信は自ら太刀打ちを行い、信玄自身も負傷したことから、両雄が直接戦闘したという伝説がある。謙信公祭でも演じられる「川中島合戦の再現」のモデルがこの名場面である。実際、両軍の旗本同士が衝突しているから、この伝説もあながち作り話ではない可能性がある。

 事実、ここで謙信が使ったのは、その後大名軍のスタンダードとなる「五段隊形」で、これは大将同士の衝突をはかる最新の戦列だった。