岐阜駅前にある織田信長像 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください

織田信長の気持ち

 織田信長は、岐阜城を制圧すると、印文を「天下布武」にすることにした。

 その真意は、過去には「日本全土に武を行き渡らせる」という意味で受け止められていた。

 日本を武力で統一するとする解釈も人気であった。

 しかし、信長は「天下布武」の印文を押した書状を、足利幕府再興に熱心な上杉謙信にも送っている。さらに言えば信長と謙信は同盟の関係にあった。

 なのに信長がこんな印文を使うのはおかしいだろうという指摘があり、以来「天下布武」の意味が問い直され、今では「畿内京都に幕府を再興します」と読むのが妥当だという解釈がほとんど定説のようにされている。天下とは畿内京都、武は幕府を意味する言葉だというのが、2年ほど前に書いたように私はこれに同意しない。

 なぜなら、天下はやはり天下なのであり、これを畿内京都の意味で読むのは、婉曲表現に過ぎないからだ。

 そもそも「天下布武」という漢語は存在しない。

「天下布武」の意味

《天下布武》(織田信長印判:近代デジタルライブラリー『集古十種』[印章二])国立国会図書館

 美濃を制したばかりの織田信長が「天下布武」の印文を用い始めたことについては諸説ある。かつては「天下取りへの野望」を示すものという解釈が一般的であった。だが、信長は「天下布武」の印文を押した書状を、足利幕府再興に熱心な上杉謙信にも送っている。さらに言えば信長と謙信は同盟の関係にあった。それなのに「いずれお前の領土も我が物にするぞ」と受け止められる印文を使うはずがないという意見が出されて、歴史学者たちがこの言葉の内容を再検証した。

 その結果、戦国後期、「天下」という言葉が日本全土ではなく、京都畿内に限定される史料が多く見られることに注目され、ここを「京都畿内」とし、「布武」は「武を布く(自身の武力を行き渡らせる)」ではなく、公家から「武家」と呼ばれていた事例を参考に、「天下布武」は「幕府を再興する」という意味だと解釈されるようになった。

 今ではこれが「天下布武」の意味の定説のようにされている。