(歴史家:乃至政彦)
惟任光秀はなぜ本能寺の変で信長に勝利したのか。どうして山崎合戦に惨敗したのか。大義なき野心が招いた勝利と、敗北の原因を見ていこう。
本能寺の変の動機
前回の続きである。
ところでなぜ光秀は、本能寺の変を起こしたのだろうか?
光秀は「武略」の人であった。
【原文】(『老人雑話』[巻下])
明智日向守か云、仏のうそをは方便と云、武士のうそをは武略と云、土民百姓はかはゆきもの也と、名言也、
【意訳】
明智光秀はいった。「『仏の噓を方便、武士の噓を武略という。土民・百姓はかわいいものだ』というのは名言である」。
また、フロイスも光秀のことを「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と述べている。他人の隙を探し出して、不意を喰らわせ、自分の利益を得るのが得意だったのだろう。
かたや信長は、人任せ、運任せのところがあった。冒険的ではあるが、臨機応変すぎて、うまくいけば大成功だが、悪くすると大失敗することが度々あった。
成功例では、少数の兵で大人数の今川軍を相手に臨機応変の戦いを制した桶狭間合戦。織田軍が兵糧も準備できない中、たまたま武田勝頼が撤退せずに前に出てくれたおかげで短期決戦を挑むことができ、戦果を得られた長篠合戦。どちらも少し運が悪ければ、織田軍はあっさり崩壊する恐れを秘めたギリギリの勝利であった。
失敗例では、妹を嫁がせて北近江を委ねていた浅井長政を盲信して越前に攻め入ったがため、窮地に陥った越前討伐と金ヶ崎合戦。足軽に撃ち混じり、最前線に飛び出たため、足に銃弾を受けて負傷した天王寺合戦。これらは信長の油断と過信が大きな痛手を招いたものである。
比較すると、信長は隙だらけで、かたや光秀は隙を見つけたらこれを活用する達人であった。