台北に到着し帽子を脱いで蒋介石総統に話しかける米国のドワイト・アイゼンハワー大統領(1960年6月18日、写真:AP/アフロ)

なぜ「対中姿勢の色を変える」のか

目次

 台湾政治ではこれまで、「親中」と「反中」が周期的に入れ替わる現象が繰り返されてきた。

 だが、これは優柔不断の表れではない。中国の強圧と米国の戦略的曖昧さという二重の圧力の狭間で、台湾は中国にのみ込まれずに生き残るため、状況に応じて対応を大きく変える必要があったのだ。

 筆者は、この台湾の戦略を状況に応じて体の色を変えるカメレオンにちなんで、「カメレオン戦略」と呼びたい。

 これは政府が計画的に実行している政策ではなく、民主主義の選挙を通じて民意が政権を選び、その時々の社会心理が対中姿勢を変化させることで、結果として戦略的な変色が生まれているのである。

 台湾の民主主義は、選挙を通じて民意が政権を選び、その時々の社会心理や安全保障観が、「親中」か「反中」かに揺れ動く。

 結果として、台湾はまるでカメレオンが環境に合わせて変色するように、対中スタンスを調整し、中国の圧力を巧みにいなしてきた。

 言い換えれば、台湾のカメレオン戦略を実行している主体は、政府ではなく「台湾国民」そのものである。民意の選択が、意図せざる戦略的効果を生み出し、台湾を生き延びさせてきたといえる。

 本稿では、戦後から現在までの台湾の「変色の歴史」をたどり、習近平政権期の圧力下で台湾が次にどの色を選ぶのか、そして日本がそこから何を学ぶべきかを考えていきたい。

歴史の起点:国連での代表権喪失と蒋介石体制の終焉

 1971年、中華民国は国連における中国代表権を喪失し、国連決議2758により北京政府(PRC)が代表権を獲得、台北の代表は排除され、中国の正統性は北京に移った。

 これは単なる議席の移動ではなく、米国を含む国際社会が「人口・市場・地政学的重み」を理由に、現実主義的に北京を選んだ結果である。

 冷戦下でソ連を牽制するため、米国が中国との接近を優先したことも、台湾切り離しの背景にあった。

 この瞬間、台湾は外交的孤立に直面し、蒋介石体制は防衛と統治の両面で揺らぎ始める。

 1975年の蒋介石死去後、1978年に長男である蒋経国は第2代総統・厳家淦の跡を継いで第3代総統となった(~1988年、任期中に病死)。

 総統として強権を維持しつつも台湾の近代化へ舵を切り、後の民主化の基盤を整えた。国連での代表権喪失という「外圧」が、皮肉にも台湾内部の変化を促す契機となったといえる。