『松平記』国立公文書館蔵

(歴史家:乃至政彦)

清洲同盟の実否

 尾張・織田信長と三河・徳川家康(当時は松平元康)の同盟「清洲同盟」で、両者は面会していなかったとする説が有力である。このあたりインターネットでも最新の説がどうかは紹介されているようなので、私からさらにその実否を唱える必要はないと思う。

 この同盟に関しては、徳川家康の編纂史料で最古のものとされる『松平記』(全六巻)に次の説明があり、概ねこの通りであったと考える。

同(永禄)三年ヨリ四年ノ間、刈屋衆(水野信近遺臣の衆)ト岡崎衆(徳川家康の衆)セリ合度々也、然ル処ニ信長ヨリ水野下野守(信元)ヲ以、家康へ色々和談ノアツカヒ有、互ニ起請文ヲ書、取カハシ和談相済、岡崎衆尾州衆ノ弓箭無之候也、

 織田信長と徳川家康は、「互いに起請文を書き、(これを)取り交わし(て)和談あい済み」とあるように、水野信元が仲介して両者の起請文を交換するだけで成立したようである。水野信元は、家康実母の異母兄であり、以前から今川家を裏切って織田家の陣営についていたので、このようなことが可能だったのだ。

 もし水野信元が信長に属していなければ、家康も今川家臣として徹底抗戦する以外の選択肢を取りにくかっただろう。

 当時は、上杉謙信と北条氏康の同盟もそうであるように、代表同士が顔を合わせることなく組まれることが普通であった。ここに「清洲同盟」(当時も近世にも使われていない後世の造語)が清洲で結ばれたものではないことを認められる。

 ところで今年の大河ドラマでは、この『松平記』に言及する論者も多いと思うが、今回これがどういう史料かを簡単に説明し、最後に冒頭で触れた水野信元の人柄に触れて見たい。