(歴史家:乃至政彦)
※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。
越後の上杉謙信と越中東部の椎名康胤
越中東部(新川郡)の松倉城主・椎名康胤は、永禄5年(1562)頃、越後の上杉謙信の身内である長尾小四郎(景直)を養子に迎え入れた。これにより康胤は、ライバルである越中西部の増山城主(もと富山城主)・神保長職(じんぼながもと)を謙信が押さえ込んでくれることを期待した。
謙信と康胤win-winの関係成立である。
永禄11年(1568)3月、謙信は能登を追われた守護の畠山義続を支援するため、越中に進軍した。康胤はこれを快く思わなかった。なぜなら畠山義続と神保長職は親密な関係だったからだ。このままでは自分の立場が危なくなると眉をしかめた。
ところで謙信の進軍中、越後の下郡で本庄繁長が挙兵する。びっくりした謙信はすぐさま越後に引き返した。繁長は甲斐の武田信玄に唆されて謀反したのだ。しかも信玄は、椎名康胤にまで調略の手を伸ばしていた。
ここで康胤は、謙信の敵になる決意をする。
神保長職が加賀一向一揆勢と不仲であることを視野に入れて、大坂本願寺の顕如と通じて、敵方へ転じてしまった
こうして謙信は、東を本庄繁長に、西を椎名康胤に、南を武田信玄に囲まれて、という人手不足のなか、越中・信濃方面の防備を固めるよう指示した。
ちなみに康胤の養子に入っていた椎名景直はこのため越後へ帰国し、長尾氏に復名する。
謙信再度の越中侵攻
翌年(1569)8月、謙信は椎名討伐を決意して、再度の越中侵攻を行なう。康胤は難攻不落の松倉城に入り、城下町の金山根小屋を焼き払った。焦土戦術である。上杉軍が城攻めに利用するのを避けるためであった。これにより松倉城は「巣城」以外の全てを失ったが、それでも堅固に100日間持ち堪えた。
なお、謙信はこの陣中でこれまで交渉のなかった徳川家康からの「使僧」を容れ、「向後之儀ハ無二可申合心中候」を望む旨を8月22日付松平親乗宛書状に記している。22日、上杉軍は「金山へ押詰、要害際に陣取、廿二之暁しんしやう(新庄)則、従此方堅固ニ為持」というように新庄城を攻略して金山を占領し、椎名軍を圧倒していた(8月23日付上杉輝虎書状。『上越市史』799号)。翌日には田畑を荒らして、城内の椎名兵を挑発したようである。