越中東部(新川郡)の松倉城主・椎名康胤は、永禄5年(1562)頃、越後の上杉謙信の身内である長尾小四郎(景直)を養子に迎え入れた。これにより康胤は、ライバルである越中西部の増山城主(もと富山城主)・神保長職(じんぼながもと)を謙信が押さえ込んでくれることを期待した。 謙信と康胤win-winの関係成立である。 永禄11年(1568)3月、謙信は能登を追われた守護の畠山義続を支援するため、越中に進軍した。康胤はこれを快く思わなかった。なぜなら畠山義続と神保長職は親密な関係だったからだ。このままでは自分の立場が危なくなると眉をしかめた。 ところで謙信の進軍中、越後の下郡で本庄繁長が挙兵する。びっく