上杉景勝

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

上杉謙信の体制変換

 越後の上杉謙信は、後継者を誰にしようとしていたのか?

 実はどうやらその時々によって方針を変えていたようである。

 元亀元年(1570)12月、同年中に養子として北条氏康の末子である上杉三郎景虎を迎えた謙信(当時は輝虎)は、有髪のまま入道となり、それまで「上杉輝虎」の俗名を名乗っていたが、ここに初めて「不識庵謙信」の法号に改めることにした。

 東国武将が入道して法体となるのは、隠退の意思表示であることが多い。ゆえにこれは上杉家の家督を景虎に譲るポーズとして認められよう。

 ただし話は少し複雑である。謙信は先立って(仙洞院)の子である「長尾顕景」を養子に迎えていたのだ。

 これは謙信がまだ「長尾景虎」を名乗っていて、自身が上杉一族となる未来を予想していなかった時期のことである。顕景は、越後長尾一族の通字「景」を実名の下に置いているので、自身の後継者候補筆頭として迎えていたと考えられる。

 ところがここに長尾の主筋である上杉一族として景虎が入った。これは何を意味するのだろうか。この疑問は“謙信が上杉家の家督をあまり重視していなかった”と見ることで解決する。

 謙信は、上杉憲政から関東管領・山内上杉一族の家督を一代限りとして考えいたらしく、「名代職」を譲り受けたと述べていた。名誉職のひとつぐらいに認識していたのである。

 ゆえに次代には、顕景が長尾家惣領として越後一国を統治する体制に帰するつもりでいたはずである。

 ところが相模の北条氏康・氏政父子と同盟を結ぶにあたり、自身をこの立場に押し上げてくれた関東諸士への義理を通すため、それまで謙信の上杉家継承を認めず「長尾」と呼び続けていた北条家らにこの継承を既成事実と認めさせるため、同盟の人質として送られた「北条三郎」を「上杉景虎」と名乗らせることにしたのである。

 ここに謙信は、越後守護代・長尾家の惣領としての実権を顕景に譲り、上杉家の名誉的称号は景虎に譲るつもりであったと考えられよう。つまり、関東管領の職権と責任を放棄して、関東のことは関東に委ねることを望んだのである。