越後の上杉謙信は、後継者を誰にしようとしていたのか? 実はどうやらその時々によって方針を変えていたようである。 元亀元年(1570)12月、同年中に養子として北条氏康の末子である上杉三郎景虎を迎えた謙信(当時は輝虎)は、有髪のまま入道となり、それまで「上杉輝虎」の俗名を名乗っていたが、ここに初めて「不識庵謙信」の法号に改めることにした。 東国武将が入道して法体となるのは、隠退の意思表示であることが多い。ゆえにこれは上杉家の家督を景虎に譲るポーズとして認められよう。 ただし話は少し複雑である。謙信は先立って(仙洞院)の子である「長尾顕景」を養子に迎えていたのだ。 これは謙信がまだ「長尾景虎」を名
上杉謙信の果たせなかった構想、新しい「御屋形様」と後継人の正体
景虎でも景勝でもない後継者に、謙信はどんな夢を抱いていたのか?
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