延暦寺 根本中堂 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

比叡山焼き討ちのあとしまつ

 元亀2年(1571)9月12日、織田信長は近江比叡山・延暦寺を焼き討ちした。

 これにより、延暦寺は総本山を失った。一度滅亡したのである。

 ここから幕府と信長の関係を悪化させる事件が起きてしまう。

 延暦寺の遺領問題(山門領問題)である。

 信長は焼き討ちで大功のあった明智光秀に、比叡山すぐ近くの坂本がある近江滋賀郡を与えた。すると光秀は坂本に居城を建てた。ここまでなら楽勝である。

 だがそこには光秀の頭を禿げさせるような難題があった。

 滋賀郡を統治するということは、延暦寺のあった土地そのものを管理することでもある。そこには持ち主を失った寺や土地が散らばっている。欠所跡職(けつじょあとしき)である。しかも欠所と化した比叡山関連の知行地は、近江ばかりでなく山城にも点在していた。

 本来ならこれまで、足利将軍が比叡山の山門使節を守護に準ずる権限を与えることで欠所跡職の管理・保護を行なっていたので、幕府に任せるべき事案だった。ところが、比叡山の焼き討ちは信長が独断でやったことなので、幕府に相談しにくい。だからと言ってゆっくりやっている余裕などない。焼き討ち直後で治安はおそらく最悪だったことだろう。ほっとくと誰が遺領を横取りするかわからない。ゆえに、この状況を光秀に丸投げしてしまったのだ。

 不幸なことに光秀には郡規模の行政経験などまるでない。