富山城 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

長尾能景と一向一揆衆の戦い

 越後の上杉謙信と加賀一向一揆の闘争には謙信の祖父・長尾能景以来の因縁がある。

 今回はどうして両者が争い合う関係になったのかを概観していこう。

 全てはもと能登守護の畠山義元が本国から逃れ、越後守護代である長尾能景のもとへ亡命したことに始まる。義元は、加賀で興った一向一揆を敵視しており、一揆衆がほぼ全域を支配する越中へ、能景と一緒に侵攻するつもりであった。能景のもとには、畠山に臣属する射水・婦負郡守護代の神保慶宗も参戦することになっていた。

 現・能登守護の畠山尚順(当時は畿内にいた)も彼らの軍事行動を支持していた。ただ、尚順は畿内情勢に関与しており、こちらを重要視していたため、現地に足を運ぶ余裕はなく、全ては現地任せであった。

 こうして永正3年(1506)加賀一向一揆相手に戦うことになった能景だったが、思いのほか苦戦して、ついには敗死してしまった。一揆衆に味方する現地領主が多すぎたのだ。

 加賀一向一揆は、謙信にとって祖父の仇なのである。

 その後、畠山義元は能登に帰国することができたが、永正12年(1515)に病死してしまう。