(歴史家:乃至政彦)
※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。
長篠合戦は本願寺への支援で発生
織田信長と武田勝頼の長篠合戦に至る流れを見ていこう。
足利義昭による第三次織田包囲網は、もともと義昭と対立していた勢力をも味方に引き入れ、信長の味方であったはずの毛利輝元も参加させるまでに至った。
天正3年(1575)4月6日、信長は岐阜城を発し、「五畿内・尾・江・勢州・若州・丹後・丹波・播磨・根来寺四谷之衆」からなる「御人数十万余」もの大軍を催して摂津高屋城の三好康長と大坂の本願寺顕如を攻めた。同月19日に康長はあっさり降伏。信長はこの戦果に満足して「秋にまた再戦する」と言い、すぐに帰国した。
これを見た甲斐の武田勝頼は、同月28日、勝頼は越中の杉浦紀伊守に対し、「当春夏の間」に信長が上洛して大坂を攻めるのを妨害するため、自ら三河と尾張へ攻め込み「決着をつける」覚悟だと伝えた。
勝頼の狙いは、三河・遠江の徳川領であった。
武田勝頼の「一動」
武田軍は先遣隊と武田勝頼本隊の二手に分かれ、信濃から三河へ進軍した。
二次史料主体の見解ではあるが、武田軍は岡崎城にある徳川家臣の内通に乗じて出陣しており、その目的は岡崎城の制圧にあったと考えられている。岡崎城はかつて家康の居城であったが、家康は遠江浜松城に移転しており、その嫡男・松平信康の居城であった(金子拓『シリーズ【実像に迫る】長篠の戦い』戎光祥出版・2020)。
その信康が出陣して勝頼の軍勢に接近する。城内にいる武田内通者にとって裏切りの好機であったが、ここでその企てが発覚し、関係者は捕獲され、全ては失敗に終わってしまった。
4月30日、勝頼は浜松城から接近した徳川家康の軍勢と交戦してこれを吉田城に追払った上で、三河吉田城と二連木城を攻撃・放火した。
すでに岡崎制圧は困難になっていたが、ここまでの戦果に満足していたらしい。ただ、最後のおまけとして長篠へ「一動(一働き)」しようと考え、翌日の5月1日に長篠城を攻め囲んだ。
しかし長篠城は、信長から送られた兵糧が充分備えられていたことと城兵の奮闘により、5月18日まで持ち堪えた。
武田軍が最前線の城に引き付けられている。これこそ信長の望む展開であった。
5月13日、信長は嫡男・信忠と共に岐阜を出て、かなりの大軍で三河に向かった。同月18日に信長は、三河の「志多羅之郷(設楽郷)」でも一段と低い極楽寺山に布陣して、その際「段々に御人数三万計」の自軍を「敵方へ見えざるように」して身構えた。信忠は新御堂山に布陣した。
家康はその前面にある敵から視認しやすい高松山に布陣して、前列に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・佐久間信盛を並べ、家康と一益の隊前に馬防柵を構築して守りを固めた。
武田勝頼は長篠の付城である鳶ヶ巣山砦を出て西に進軍し、有海原前に布陣した。そしてこの5月20日、駿河にいる家臣・今福長閑斎に宛てて次のように述べている。
「心配して飛脚を送ってもらい感謝している。こちらはほぼ思い通りになっているので、安心してほしい。信長と家康が長篠の後詰に出てきたが、何ほどこともなく対陣している。敵はなす術を失って切羽詰まっているようなので、決戦を仕掛けて決着をつけようと思う。こちらは順調である」
信長と家康が無策で怯えていると見ていたのである。