石山本願寺推定地碑(大阪城二の丸)

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナス手取川合戦の実相を追求する歴史連載謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

越前一向一揆敗勢の影響

 天正3年(1575)8月、織田信長は大坂本願寺に属する越前の一向一揆を制圧し、隣国である加賀南部まで支配下に置いた。

 降参する加賀南部の門徒たちの中には、信長の歓心を買おうと、大坂から派遣された本願寺の坊官殺害を申し出る者もいるほどだった。

 同年7月、上杉謙信は越中を平定する。ここまで長い戦いだった。謙信は勢いに乗じて、加賀侵攻を進める。すると加賀北部の門徒たちが謙信に降伏を申し出た。こちらも謙信にとっては長年の宿敵だった。彼らは、祖父・長尾能景の死因を作った因縁もある。腹立たしい気持ちもないではないが、北進を続ける信長に対抗するには、西進を加速するのが望ましい。北陸を制覇したい謙信は降伏を受け入れた。

 ところでこの時期のものであろう。昭和7年(1932)、越前の城跡からある屋根瓦が発掘された。そこには織田軍の一向一揆虐待の実態が書き残されている。

 ここに書くことをご覧になって、後世に語り継いでほしい。5月24日に一揆が起こり、前田利家殿は一揆衆を1000人ばかり生捕りにすると、成敗だと言って磔・釜茹で・火炙りにした。一筆に書き留めておく。

 織田軍の一向一揆虐殺の実態を窺い知ることのできる貴重な記録である。

 悲しいことだが、こうした残虐性は英雄につきものであろう。信長は「覇道」を突き進んでいた。加賀北部の一揆衆が謙信に降伏した一因は、織田軍の残虐な仕打ちに遠因があるだろう。

越後の真宗寺院

 ところで越後には、謙信がかねてから本願寺と通じていたとする伝承が多数あり、これらは大別して二通りある。

 ひとつは、新潟県各地の寺伝に越後の門徒武士や僧侶が本願寺の援軍に旅だったとする逸話群(専正寺、願浄寺、浄覚寺、光明寺)と、信長に敗れて逃れてきた門徒武士が開基となった寺院(教覚寺、西楽寺)があって、越後の門徒が自発的に関与したとする伝承群で、中には願浄寺のように元亀元年(1570)から謙信に許可をもらって大坂に参戦した武士の話もある(『新潟県寺院名鑑』)。

 もうひとつは、真宗僧侶超賢(ちょうけん)が、越後から兵糧などの支援物資を大坂へ輸送するよう奔走したとする本誓寺文書の記録である。そこには超賢が「謙信へ伺之上北国之門末を走廻」って「兵粮等」を受け取り、大坂に輸送したことが記されている。

 これら伝承の真偽は不明だが、越後の真宗寺院は謙信の父為景が弾圧を加えても根絶されておらず、弾圧は不徹底に終わったと考えられる。民間への布教で勢力を拡大した中世の浄土真宗は、ほかの伝統的宗派と違って寺領がなく、土地からの収入がない分、経済基盤を信徒からの寄進に依存しており、それだけに純粋な信仰心を重視して、大名の弾圧に屈しない堅固な勢力であった。

 もし北陸進出時に一向一揆の抵抗に苦戦していた謙信に、国内の真宗武士や僧侶が「暇乞して大坂に向かいたい」と申し出たとすれば、謙信はこれを「否」と即答できただろうか。

 強く拒絶して対立を招いた場合、越後は一向一揆に悩まされたかもしれない。永禄6年から7年(1563~64)の三河では一向一揆が猛威を振るい、徳川家康を苦しめた。謙信としてはその活動を妨げるより、一向宗との関係改善に利用するほうが望ましかっただろう。