天正3年(1575)8月、織田信長は大坂本願寺に属する越前の一向一揆を制圧し、隣国である加賀南部まで支配下に置いた。 降参する加賀南部の門徒たちの中には、信長の歓心を買おうと、大坂から派遣された本願寺の坊官殺害を申し出る者もいるほどだった。 同年7月、上杉謙信は越中を平定する。ここまで長い戦いだった。謙信は勢いに乗じて、加賀侵攻を進める。すると加賀北部の門徒たちが謙信に降伏を申し出た。こちらも謙信にとっては長年の宿敵だった。彼らは、祖父・長尾能景の死因を作った因縁もある。腹立たしい気持ちもないではないが、北進を続ける信長に対抗するには、西進を加速するのが望ましい。北陸を制覇したい謙信は降伏を受
上杉謙信と加賀一向一揆の決着、謙信はかねてから本願寺と通じていたのか
一向一揆を降伏に向かわせた謙信の「王道」と織田軍の「覇道」
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