(町田 明広:歴史学者)
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは①
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは②
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは③
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは④
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは⑤
薩土盟約の破棄と「失機改図」
慶応3年(1867)7月4日、薩摩藩(島津久光・小松帯刀)と薩土盟約を締結した土佐藩士後藤象二郎は、10日後に率兵上京すると言い残し、藩論をまとめるために土佐に帰藩した。しかし、後藤はイカルス号事件に巻き込まれた。これは、7月6日夜に長崎で英国船水夫2人が何者かに殺害され、犯人の嫌疑が海援隊と土佐藩にかかり、イギリス公使パークスが土佐まで出向いて強硬に抗議した事件である。
その対応等で、後藤の大坂着は9月3日と、当初予定が大幅にずれ込んだ。7日に実現した後藤・小松会談で、後藤は大政奉還の建白は実行するものの、その際に武力による威嚇はせず、肝心な徳川慶喜への将軍職の辞職要求もしないと述べた。これは、薩土盟約を反故にしたもので、小松は薩土盟約を薩摩藩側から破棄し、薩摩藩のみで「挙兵」することを通告したのだ。
後藤は挙兵には反対の意を示し、9日にも後藤と福岡孝弟が小松らに挙兵の延期を求め、至急の大政奉還建白の意思表示をした。薩摩藩側は、挙兵延期は事実上、拒否して大政奉還建白は容認する態度を示した。薩摩藩は、土佐藩の周旋を既に期待しておらず、ここに両藩の政略的離反は決定的となったのだ。
久光の退場と三都挙兵計画への転換
久光は後藤の遅れと、慶喜が四侯を無視して、佐賀藩主鍋島直正に長州藩処置の周旋を密かに依頼したことなどから、時いまだ至らずと判断し、特に今後の策を授けることなく、9月21日に帰藩した。久光は、6日に兵を率いて到着していた息子の島津備後を禁裏守衛とすることを朝廷に申請した。ここに、久光自らによる幕末期の中央政局での役割は終焉したのだ。
7月15日、村田新八が西郷隆盛の名代として長州藩を訪れ、薩土盟約の締結を伝達した。薩摩藩の真意を確認するため、直目付・柏村数馬らが上京し、8月14日に小松邸で西郷・大久保利通も交えて会談した。薩摩藩はやや杜撰とも思える「秘策」、江戸・大坂・京都での三都挙兵計画を提示した。その計画は、薩摩藩が先駆けとして倒れるまでのことで、倒幕までには至らず、その後は任せたいとの趣旨であり、薩摩藩にとっての大政奉還路線が頓挫した今、長州藩との武力討幕に傾斜したのだ。
ちなみに、本プランは西郷が説明したというのが通説であるが、実際には、一次史料では説明者を確定できず、筆者は小松が説明したのではないかと考えている。小松は薩摩藩の代表者であり、小松とするのが妥当ではないだろうか。