(町田 明広:歴史学者)
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは①
◉真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは②
久光退京後の中央政局と薩摩藩
元治元年(1864)4月、朝政参与体制が瓦解したため、島津久光は帰藩の途に就いた。大久保利通・高崎正風・高崎五六らが追従し、小松帯刀・西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治らが在京することになった。また、久光次男の島津久治(図書)が滞京したが、久光の傀儡的名代に過ぎず、あくまでも小松が薩摩藩を代表して、指揮命令権を掌握したのだ。
久光は3分の1にあたる500の兵力を残留させたが、その目的は御所の警衛に限定された。当時は、諸侯が次々に退京を開始しており、財政問題も相まって兵力と呼べる在京藩士は残っておらず、薩摩藩の500は過大な兵数であった。
この兵数は、御所警衛もさることながら、長州藩の率兵上京に伴う戦闘を意識していたことは自明であった。薩長関係は、文久3年(1863)の8月18日政変および薩摩藩船砲撃で不倶戴天の敵となっており、一触即発な関係にあった。久光は国元の藩主忠義に出兵の怠りない準備を指示しており、忠義はそれに応えて軍事操練を継続していた。
久光は帰藩にあたり、在京藩士に対して御所の警衛のみを命じる諭告を残した。大政委任を望んでいたものの、朝幕が想像以上に接近した公武融和体制に移行し、久光の入り込む余地はなかったのだ。なお、薩摩藩・久光を誹謗中傷する貼紙・風評が流布し、政敵ともいえる慶喜が中央政局の中心におり、当面は情勢を座視するしか術は残されていなかった。
在京藩士が国事周旋を図ることは、厳に慎むべきと判断したことは、至極妥当な政略であった。小松以下、在京藩士はその遺策を順守し、周りの雑言を全く無視して禁裏守衛一筋であることが求められた。長州藩およびそれを支持する廷臣や、尊王志士の動向を熟視する体制を敷いたのだ。