慶応3年(1867)7月4日、薩摩藩(島津久光・小松帯刀)と薩土盟約を締結した土佐藩士後藤象二郎は、10日後に率兵上京すると言い残し、藩論をまとめるために土佐に帰藩した。しかし、後藤はイカルス号事件に巻き込まれた。これは、7月6日夜に長崎で英国船水夫2人が何者かに殺害され、犯人の嫌疑が海援隊と土佐藩にかかり、イギリス公使パークスが土佐まで出向いて強硬に抗議した事件である。 その対応等で、後藤の大坂着は9月3日と、当初予定が大幅にずれ込んだ。7日に実現した後藤・小松会談で、後藤は大政奉還の建白は実行するものの、その際に武力による威嚇はせず、肝心な徳川慶喜への将軍職の辞職要求もしないと述べた。これ