(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
平地とはいっても、なかなかの要害地形
葛西城は、わかりやすくいうと京成線青砥駅と、常磐線亀有駅との中ほどにある。
青砥からなら、駅の東側を通る環七通りに出て北(亀有方向)に1キロほど歩く。亀有からだと歩くと少々遠いので、青砥・新小岩方面行バスに乗り「老健青戸こはるびの里」で降りる。バス停を降りると、環七通りをはさんで東側に葛西城址公園、西側に御殿山公園がある。ここが、葛西城の主郭跡だ。環七通りが主郭を二分している形である。
中曽根城のときと同様、周囲は一面市街地でまったくの平地だ。公園に表示がなければ、城跡だとは気付かないだろう。しかし、実際には城は中川に沿った微高地の上に位置しており、西側はにかつては低湿地が広がっていた。平地とはいっても、なかなかの要害地形だったわけだ。
また、城地の西から北にかけては国道6号線が通っている。6号線は水戸街道とも呼ばれ、江戸から下総・常陸へと抜ける重要な交通路であった・・・と、こう書いた時点で、すでに戦略的な要衝であったことがうかがい知れよう。
そんな場所に、戦国武将たちが目を付けないはずがない。葛西の地に最初に城が築かれたのは、1460年代のことだ。室町時代に関東を治めていた体制が、古河公方と管領上杉氏とに分裂し、関東の東半分が古河公方の、西半分が管領方の勢力圏となると、管領上杉氏は葛西の地を最前線として城を築き、有力武将に守らせたのだ。
1500年代に入ると、管領上杉氏の力は徐々に衰えて、西から北条氏の勢力が伸びてくる。ただ、1524年(大永4)に北条氏綱が江戸城を奪取したのちも、葛西城はしばらく扇谷上杉氏の勢力下にあった。こののち、北条氏と扇谷上杉氏との間で、葛西城の争奪が繰り返されるが、1562年(永禄5)には北条方が手中に収めることとなる。
北条氏にとって、最重要拠点である江戸城の前衛として、あるいは房総・常陸方面への出撃拠点や中継点として、葛西城は重要な軍事基地となった。
このような要衝であるから、葛西城は本格的な平城だったらしい。これまでに何度も行われた発掘調査や、地中レーダー探査の成果をつなぎ合わせると、南北450メートル、東西350〜400メートルほどの範囲に、いくつもの曲輪が並んで、複雑な縄張を構成していた様子が浮かび上がる。
また、主郭を囲む堀の幅は18メートルもあったようだ。発掘調査では、戦国時代の遺物も多数出土しているが、生活用品はグレードの高さが目に付く。戦略の要衝として、北条氏の当主や一族の有力武将が、いつでも在城できる態勢が整っていたのだろう。
のちに北条氏滅亡後に江戸に入った徳川氏も、葛西城の跡地に「葛西御殿」という施設を置いている。「御殿」とは、街道の要衝に置かれた将軍用の宿泊施設のことだが、実際は小さな平城のような構えをしていた。
このあたりの詳しい情報がほしい方は、葛飾区郷土と天文の博物館へ行くと、城の解説や出土遺物の展示を見ることができて、より具体的なイメージが涌くだろう。
城跡の現地は、公園の中に建つ石碑や説明板が、かろうじて城跡の所在を伝えているのみだ。通りすがりの勤め人が、ベンチで缶コーヒーを飲みながら一息ついている。学校帰りの小学生が道草を食ったり、女子高生がおしゃべりに興じたりしている。誰もここに城があったことなど、気にも留めていないようだ・・・。
それでいいじゃないか、と思う。城なんて、本当は血なまぐさい場所なのだ。それが数百年の歳月をへて恩讐も慟哭も埋もれ去り、城が浄化されたみたいで、筆者は平和な情景にほっとするのである。
[参考図書] 葛西城の時代背景を知りたい方は、拙著『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。