「弱い者」が「強い者」に反撃するのは爽快ですが、「強い者」が「弱い者」をいじめるのも、慣れてくれば刺激が少なくなり、エスカレートしていくのは人間社会必定の理というべきでしょう。

 そしてこの時期、1980年代中半~90年代にかけて、エスカレートしたイジメ芸を工夫し、暴力的なシゲキに慣れてしまった日本社会で「悪質な笑い(横山やすし)」で視聴率を取っていったのが、最上級生の「ダウンタウン」と、彼らに組み敷かれる、例えば「いじられキャラ」だった山崎邦正(1968-) 後輩芸人たちという「いじめ芸ポルノ」の構図が成立していったわけです。

 たまたまこの時期、彼らと同世代でテレビの仕事に携わり、古き良き日本の話芸が好きだった私には、この手の「テレビのポルノ化」は「世も末」としか言いようがないとの思いでした。

 ポルノというのは、つまりこういうことです。

 仮に「男女の情事現場」とか、「局部の近接映像」といったものがテレビでオンエアされたら、人はどう反応するか?

「なになに?」と見にくる人は少なくないかと思います。と同時に、何割かの人は顔をしかめ、いやな気分になって去って行く。

 それでも「視聴率」は取れ、お金は儲かる。

 また、コアなファンは、それに味を占めてついて行くようになる。これが「ポルノ」の特徴です。

 エロビデオやら、かつての週刊誌の袋とじグラビアやらと同様、「儲かることは分かっているけれど、分別があればやらない荒稼ぎ」を「ポルノ」と呼んでいるわけです。

 ところが、「松本人志」は正面からこの「ポルノ」を見せびらかすことで視聴率を稼いだ。

 単に「分別がない」だけの状態を「才能」と勘違いして「失われた30年」の病んだ社会病理に訴えた。

 そして、インターネットの登場で沈没しつつあるテレビメディア、つまり沈没途中の船の中だけで通用する「はだかの王様」という権力者に祭り上げられた。

 ホテルなどで「ハダカの王様」だったかどうかはよく知りませんが、何にしろ、いまは事務所や代理店から見限られ、切られつつある。スポンサーが降り始めてしまいましたから。

 ということで、この機にぜひ、日本のメディアが成し遂げるべきことは「ドツキ芸」がいかん、ではなく、強いものが弱いものをイジメて、それを見せびらかす、江戸時代の公開処刑「磔獄門(はりつけごくもん)」同様の「暴力いじめ芸ポルノ」の電波からの追放の方向に、各社広報担当者の意識が向くと、効果的な「ポルノ」の駆逐になるでしょう。

 ある種の「芸人」は、もう画面に乗る必要性も十分性もありません。過去の営業の惰性で、お金が回っているだけの悪循環に過ぎず、松本人志と同時に断ち切るチャンスかもしれない。

 テレビ欄の「松本人志」をすべて「トミーズ雅」に差し替えるだけでもよほど、気持ちの良いテレビに回復すると思います。少なくとも「松本軍団のいじめショー」は一掃されることになるから。

「強い者」の側に立って一部の「弱い者」がひどい目に遭うのを見て、心密に喜ぶといった状況を「弱い者いじめ」というわけで、これで視聴率が取れてしまった「失われた30年」という時代が、いかに不健康な社会心理で回っていたか、そのことをしっかり見据える必要があると思います。

 世の中全体でも「強い者」が無茶苦茶な専横を押し通し、正直者がバカを見るようなことになってはいないか?

 若者の「将来就きたい職業」の高位に「ユーチューバー」が来てしまう程度に末期的な社会を作り出してしまったのは、私たち現在の大人自身であることをよく考え、いままさに退場しつつある「松本人志」のようなタレントを持ち上げ回してきた、空疎な経済をよく反省する必要があると思うのです。