ラジオ放送開始と「しゃべくり漫才」の誕生

 日本でラジオ放送が始まったのは1925年、大正14年のことなので、今年で正味100年が経過したことになります。

 そしてこの「ラジオ放送」とともに誕生したのが大阪の「しゃべくり漫才」という芸でした。

 吉本興業のホームページなどには「しゃべくり漫才」は「エンタツ・アチャコという天才が創始」などと書いてありますが、完全な間違い、大嘘でしかありません。

 横山エンタツ(1896-1971)と花菱アチャコ(1897-1974)が、喜劇一座のやりとりを抜き出して会話型の雑談芸を試みた初期の芸人であったことは間違いありません。

 エンタツもアチャコも喜劇の出身で、伝統的な「萬歳」の伝承者ではありません。

 ラジオというメディアが誕生し、そこで人を飽きさせずにスピーカーの前に釘付けにするコンテンツとして、この時期新たに発明されたのが「しゃべくり漫才」です。

 その実は秋田實(1905-77)など、数名の仕掛け人が開発した、マスメディアのニーズに応える新しいエンタテインメントというのが実態でした。

 ラジオ向けの新芸「しゃべくり漫才」のなかにも、実は「ドツキ」は出てきます。それは、ボケの言う可笑しな話に、突っ込みが「エエかげんに、シナサイ!」と、胸を手の平や甲ではたく程度のものに過ぎません。

 というのも、ラジオは声だけですから、派手に動いても聴取者にビジュアルは伝わりません。寄席芸では身振り手振りもウケますが、ラジオ向けに漫才作家が書く台本は、もっぱら滑稽な笑いだけで人気を得るように構成されている。

 その典型として「夢路いとし・喜味こいし」(1937ー2003)通称「いとこい」師匠のしゃべくりを挙げると、典型的と思います。

 親代々の芸人である夢路いとし(1925-2003)、喜味こいし(1927ー2011)兄弟の漫才は、人をけなすとか、身体の特徴をあげつらって笑いものにするとか、バカにするとかいったことが一切ありません。

 それから、「性加害」どころか、シモネタを扱うことも嫌いました。

 横山やすしが「ライト兄弟」こと、まだ10代の松本や浜田に教えた「良質な笑い」のケジメというのは、「いとこい」の漫才が一線を引いた「こういう笑いは良くない、人を傷つける」という芸人のモラル、いわば話芸の「魂」をいったものだと思います。

 というのは「西川きよし・横山やすし」の漫才、通称「やすきよ」漫才もまた、時代はテレビが主流でしたからアクションは伴ったものの、「人を傷つける」とか「シモネタ」を極力排した。

 のちのち「西川きよし」が参議院議員を務められる程度に、清潔で気持ちのいい舞台だったからです。

 そして、こうした「しゃべくり」の「漫才」ではない、古くから伝承されてきた「萬歳」という別の技芸、このなかに相手を「ハリ倒す」笑いの原形が受け継がれていた。

 そして「いとこい」「やすきよ」以来の大阪漫才の職人気質に照らすなら、この「ハリ倒し」をポルノ化したものが、ダウンタウンの「芸」として、変に財貨を生んでしまったものの実態だったと、指摘する必要があるでしょう。