文化人類学者の山口昌男さんは「祝祭的転倒」として、迂遠な日常の価値をひっくり返すところに笑いがあふれる芸のダイナミクスを鮮やかに分析しています。まさにその典型になっているわけです。
大阪「笑いの殿堂」第一回に「叩かれて 鼓とともに70年」として捨丸・春代が顕彰されているのは、理由のないことではないのです。
日頃強そうにしている奴が、やり込められてあたふたしたりするから「面白い」。
西川きよし・横山やすしの漫才でも、日頃威勢のいい「やっさん」が眼鏡を取り上げられて「あ、メガネ、メガネ」とやり込められるから「面白い」。
強そうにしている奴がやられるから、見ている側も安心して笑えた。
その典型といえるのが「張り扇」を工夫した「ハリセン」を活用した「チャンバラトリオ」(1963-2015)の芸でしょう。
そもそも4人なのに「トリオ」というくらいに破天荒な芸ですが、もともとは東映京都撮影所の殺陣師(たてし:斬られ役)が結成したグループです。
序盤からプロの剣劇で十二分にカッコイイ姿を見せておいて、
といっても「いい音がして、かつ痛くない」のが「良いハリセン」とされ、あくまで「序盤で強い奴が、あとになってやられる」というのは、日本大衆技芸の「お約束事」になっています。
それが、日本の多くのシリーズ時代劇(「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」など枚挙のいとまがない)から優雅で日本的なプロレスリング(古くは「力道山・豊登vsシャープ兄弟」「ジャイアント馬場vsアブドーラ・ザ・ブッチャー」などなど)でもお決まりの「勧善懲悪」で、強弱のバランスが逆転してシーソーが人揺れして「ども・ありがとうございましたー」となる。
そういう意味では、こうした「ドツキ」の根は深く、おそらく「日本大衆芸能」がある限り、なくなることはないでしょう。