(写真:INSTARimages/アフロ)(写真:INSTARimages/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 以前、この欄で「お笑い芸人がおもしろくない」ということを書いた。かれらの漫才や笑わせようとする行為のあれこれが、腹が立つほどおもしろくなく、それらを笑うのは、互助会でもある同業者の漫才師たちだけである、と。

お笑い芸人がおもしろくないのは当たり前(2020.9.9)

 あれからコロナ禍を経た現在、ますますお笑い芸人の出る番組を見る気がしなくなった。かれらだけではない。自己顕示の強いタレントや民放の男女アナも、見たくない。

 多くの芸人たちの、こう見せたい、こう見られたい、こう見せてやる、というわざとらしい作為が、つくづく嫌になったのである。作為はだれにもある。しかし芸人たちのそれは、いかにも嘘くさく、過剰で低劣なのだ。

 芸人たちが街中でロケをする番組が増えた。数年前、日本テレビの「ガキの使いやあらへんで!」で、ダウンタウン御一行がしばしば街中でロケをやっていたのだが、その傍若無人ぶりが目に余り、苦々しかった。

お笑い芸人が出ている番組を避けた結果

 かれらをテレビから排除することはできない。ならばこちらから見ないようにするしかないのである。自分が死ねば、世界の一切が消滅するのとおなじで、わたしが見なければかれらは存在しないことになる。それほどまでに、かれらのクソ作為が見るに耐えなくなったのだ。

 しかしお笑い芸人が出ている番組を避けるようになってから気づいたのだが、それを避けると見るものがほとんどなくなるのだ。かれらは民放の全番組の8割ぐらいに出ているのではないか。チャンネルを回せば、すぐかれらの顔が現れる。

 避けた結果、当然ながら、静かな、穏やかな番組を求めるようになった。

 別に鉄道に興味があるわけでもないのに、「六角精児の呑み鉄本線」や「中井精也のてつたび」、山登りに興味があるわけでもないのに「にっぽん百名山」、酒飲みでもないのに「吉田類の酒場日記」「町中華で飲ろうぜ」、犬や猫が好きでもないのに「岩合光昭の世界ネコ歩き」「いぬじかん」「ねこ自慢」を見るようになった。

 ほかに、「新日本風土記」「美の壺」「やまと尼寺精進日記」「麵鉄」「チャリダー★快汗!サイクルクリニック」「ランスマ倶楽部」「ずん喫茶」などを率先して見るようになった。ほとんど再放送ばかりだが、全然かまわない(なかに芸人が出ているものもあるが、そこは許容)。
ときにテレビはつけていても、見ない。イヤホンをしてデジタルプレイヤーやYouTubeで音楽を聞く。これはこれで気分がいい。