ジャニー喜多川氏の2つの夢

──ジャニー喜多川氏自身が、幼い時に、縁者から性加害を受けた可能性があるというお話が本の中に出てきました。

小菅:ジャニーさんはアメリカで生まれ育ちますが、2歳の時に、わけあって家族で日本に一時帰国しなければならなくなりました。淡路島にジャニーさんの祖父の家があり、最初はそこに行き、やがて和歌山県の親戚の家に移ったようです。いくらか滞在して、その後再びアメリカに戻り、アメリカ国籍を取得しています。

 他にメディアにも書かれていますが、どうも和歌山にいた時に、まだ幼いジャニーさんが性被害にあったらしいという話を耳にしたことがあります。これは本人に確認したわけではないので、そういう話をある人から聞いたというだけです。

 それと、この本にも書きましたが、1970年代後半に、私がジャニーさんに同行して取材し、一緒にアメリカに行ったことがありました。ハワイ、ロサンゼルス、ラスベガス、カナダと回りました。

 この時に、ジャニーさんから「小菅さん、ちょっと付き合って」と言われて、ロスに住んでいた彼の兄のもとを一緒に訪れました。残念ながら、お兄さんには会えませんでしたが、この兄は、軍隊に入った優秀なパイロットだったそうです(ジャニー喜多川の兄はその後に米航空宇宙局に勤務した)。

 そこへ行った帰りに「Hi、ジャニー」と街角で声をかけられた。60代くらいのアメリカ人男性でした。ジャニーさんはこの時40代くらいです。すると、ジャニーさんは顔を真っ赤にして、慌てて車に乗るように私に言いました。この時、昔ロスでも何かがあったのだと私は直感しました。

 ジャニーさんはよく「ロサンゼルスは僕のドリームランド」と言っており、デビューしたグループを必ずロサンゼルスに連れて行くことが慣例になっていました。少なくとも、KAT-TUNあたりまでは、この慣例が続いていたと思います。

「ユー、見てよ。昔君たちは僕をからかったけれど、今僕は日本でナンバーワンのグループのボスだよ」と向こうで古い知り合いたちに見せつけたかったのだと思います。彼の態度を見ていて、そう感じました。

──最終的にアメリカで成功することを夢見ていた、というお話も本の中に出てきました。

小菅:そうです。だから彼は晩年にKing & Prince、Snow Man、Travis Japanなど、海外を意識したグループ作りに力を入れたのです。アメリカでも成果が出始めていたけれど、2019年7月にジャニーさんが亡くなってしまった。

「少年たちのミュージカルを実現する」「アメリカで成功する」この2つが彼の二大目標でした。日本でのボーイズ・ミュージカルの方は成功しました。でも、アメリカでの成功に関しては達成できなかった。

ジャニー喜多川氏が亡くなった時に報道各社に送られたFAX(写真:時事)
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ジャニー喜多川氏が亡くなった時に報道各社に送られたFAX(写真:時事)
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 ジャニーさんは、アメリカのヒットメーカーのバリー・デ・ヴォーゾン(歌手・音楽プロデューサー)に頼んで、「Never My Love」(1966年)という曲を作ってもらったことがあります。

 これは、元祖ジャニーズのために作った曲でしたが、急遽帰国しなければならなくなり、歌の録音ができませんでした。あおい輝彦の甘い声で歌ったら、絶対大ヒットしたと思います。

 翌年、アメリカのアソシエイションというバンドがこの曲をリリースして、大ヒットした。もし、あの時にジャニーズからあの曲を出せたら、坂本九の「上を向いて歩こう」(1961年)を凌ぐ世界的な成功をおさめた可能性もあったと思います。