メリー氏が激怒した理由

──本書の中で、ジャニー喜多川氏はタレント発掘やプロデュースに力を入れ、姉のメリー喜多川氏は、財務管理やお金に関する部分を引き受けていたというお話が出てきました。

小菅:それは自然の流れです。ジャニーさんという人は、亡くなるまでずっと、お金の話をしたところを見たことがありません。確かなことは言えませんが、見ていた印象で言うと、いつも20万から30万は財布に入れていた印象があります。何でも気楽にどんどん払う。これに対して、メリーさんはお金にすごくシビアでした。

 これは、ジャニーズの所属アイドルたちと親しくなる中で、彼らから聞いたのですが、アイドルたちは実際仕事でいくら会社がもらっているのか聞いたことがなかったそうです。

 これを裏付けるように、元祖ジャニーズが性加害なども含めてジャニーズ事務所と裁判で争った時に、あおい輝彦が「僕たちはワンステージ25万円とメリーさんから聞いていたけれど、実際は80万円の仕事だと後から知った」などと証言しています。

──メリー喜多川氏が、豊川誕やVIPというグループのデビューに深く関わり、結局うまくいかなかったというエピソードがありました。メリー喜多川氏は、どの程度、タレントプロデュースに関わっていたのでしょうか?

小菅:メリーさんは、タレントのプロデュースには基本的にはほとんど関わりませんでした。そこは、弟ジャニーの専門領域であるという意識があったのです。でも、郷ひろみがいなくなり、フォーリーブスという当時の稼ぎ頭も解散した。そこから、たのきんトリオが活躍し始めるまで、間に何年かありました。

 この間、収益が減っていく不安の中で、VIPという女性2名を入れたアイドルグループや、豊川誕をメリーさんのプロデュースでデビューさせました。豊川誕は孤児で、児童養護施設で育ったという生い立ちがあるのですが、これはメリーさんが豊川を売り出すために用意したいわば作り話です。

 ある時、豊川がその週の金曜日にレコードを出すので、そのタイミングで、一緒に生い立ちのエピソード(作り話)を発表しようとメリーさんは考えていた。

 ところが、私が担当していた集英社の雑誌は毎週水曜日に発売でした。金曜日まで待つと、その週の号には生い立ちのことが書けない。そこで、メリーさんに黙って、私は豊川の生い立ちエピソードを書いて水曜日に出しちゃった。そうしたら、メリーさんが激怒した。

 当時、私はまだ集英社に入ったばかりの新米で、25歳、26歳、そんな年齢でした。あの時はたいへんでした。「すぐに小菅を来させるように」とメリーさんが編集部に電話をかけてきた。それで、会いに行ったら、一気にまくし立てられた。

 メリーさんの性格をよく知っているから、私はあえて口答えしない。ほとんど、集英社の仕事を全部切られそうになるところまでいきました。これに限らず、ジャニーズ事務所がいろんな出版社ともめた話は語りつくせないほどたくさんあります。