志村城 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

社殿の周りをよく歩いてみよう

 前回(10月20日)取り上げた中曽根城につづき、武蔵千葉氏関係の城を紹介しよう。板橋区志村2丁目にある志村城だ。

 都営三田線の志村三丁目の駅を降りて、すぐ東側の坂道を少し上ると、こんもりした木立が見えてくる。この木立のあるところが、すなわち志村城だ(写真1)。表示に従って右手に入ってみると、目の前に崖がそびえている。

写真1:画面中央の道路標識に「志村城址公園⇒」とある

 このシリーズを愛読している方(ないしは城歩きをしている方)なら、ここで「おおっ」と思うはずだ。いかにも要害地形。志村城は、台地の縁を利用して築かれた城なのである(写真2)。

写真2:この写真を見て「おお、城っぽい」と思えたら、見る目が肥えてきている証拠だ

 急斜面に付けられた園路を登りつめると、台地の上面に出る。右手にある熊野神社の境内が、どうやら城の中心部らしい。そのまま境内に入ってもよいのだが、少し遠回りでもていねいに歩いた方が、城の構造がわかりやすい。熊野神社とNidecのビルの間の道を直進して、突き当たったら右(西)に折れる。

 すぐに熊野神社の鳥居があるので、くぐってみると城址碑が立っている。そのまま参道を進むと境内なので、社殿に手を合わせていこう(写真3)。たいがいの史跡めぐりの人は、城址碑の写真を撮って社殿にお参りしたら、志村城に行ったつもりになるようだが、本当の城歩きはここからだ。

写真3:熊野神社の境内。ちゃんとお参りしてゆこう

 まず、社殿をよーく観察してみよう。いまお参りした拝殿とくらべて、背後の本殿が一段高いことに気付くだろう。社殿の横から裏手に回ると、なぜ高いかがわかる。社殿が土塁の上に乗っているからだ(写真4)。

写真4:東側から見ると本殿が土塁の上に乗っている様子がわかる

 さらに裏手を反対側へと回り込んでみよう。反対側(社殿の西側)では、土塁の外側が一段低くなっている。空堀だ。少々藪っぽいが、藪の中の小径をたどると、両側が高くなっていて、空堀の中にいることがわかるだろう(写真5)。しかも、この空堀は途中でクランクしていて、横矢掛りの構造になっている。

藪の中の小径は両側が立ち上がっていて空堀の底とわかる。画面左手が主郭側

 この空堀は、志村城の主郭(本丸)と二ノ曲輪とを隔てるもので、熊野神社境内が二ノ曲輪にあたる。主郭(本丸)は、神社の西側に建っている大きなマンションのところだ。

 藪から出たら熊野神社の境内を辞して、鳥居の前の道に戻ろう。道を西に進むと切通し状の坂を下る。この切通し道が、城域の南側を守る空堀だったようだ。

 主郭のあったマンションが見えてくるが、敷地に入るわけにはいかないので、切通しを降ったところにある公園から地形を観察しよう。マンションの敷地、つまり主郭は北と西が崖に面していて、なるほど守りやすい地形だったことがわかる(写真6)。

写真6:主郭跡には大きなマンションが建っている

 これで城域の北・南・西が把握できたことになるので、今度は城域の東側を探しに行こう。坂を登り直して、同じ道を東へ向かう。熊野神社の鳥居から東に100m行ったところで、台地上面を南北に走る道とぶつかって四つ角になっている。この南北に走る道のあたりに、堀があったようだ(写真7)。以上を総合すると南北200m、東西450mほどの範囲に、空堀と土塁で区画された曲輪が三つ並んでいた様子が浮かび上がる。

写真7:この道のあたりに堀切があったようだ。道の突き当たりの緑地を降ると写真2の公園

 志村城も中曽根城と同じで、武蔵千葉氏関係の城だということ以外、詳しい歴史はわからない。わからないけれども、現地を丹念に歩けば、どんな城だったかはおぼろげながらにわかってくる。それに、断片的ではあるが土塁と空堀が残っている。

 このわずかばかりの土塁と空堀が、どれだけ貴重な遺構であるのかは、この連載を読んで現地を歩いてきたあなたには、きっと理解してもらえることと思う。

[参考文献]東京都教育委員会編『東京都の中世城館(主要城館編)』(2006)