(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
武蔵千葉氏の一族が築いたとされる城
武蔵千葉氏という一族をご存じだろうか? 千葉氏とはもちろん、千葉常胤を祖とする下総の名族であるが、そんな中に、わけあって現在の東京23区北部に居を構えた者たちがいたのだ。
15世紀半ばのことである。関東地方を治めていた権力が古河公方と管領上杉氏とに分裂すると、千葉氏一族の中で公方支持派と管領支持派との対立が起きた。この結果、主導権争いに敗れた者たちは、管領方の勢力圏である武蔵に亡命した。
この亡命千葉氏は、管領家から赤塚(現板橋区)や石浜(荒川区か)で所領を与えられ、管領方の武将となった。これが武蔵千葉氏である。のちに管領上杉氏の勢力が後退して、武蔵が北条氏の勢力下に入ると、武蔵千葉氏も北条氏の家臣となっていった。
そんな武蔵千葉氏の一族が築いたとされる城の一つが、足立区にある中曽根城だ。江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』という地誌には、足立郡本木村の中曽根という所に武蔵千葉氏の城跡があり、堀や土塁の一部が残っている、と記されている。
北千住駅の西口から西新井駅行のバスに乗り、尾竹橋通りの関原2丁目という停留所で降りる。このあたりが中曽根城の跡で、尾竹橋通りは城域を貫通しているのだが、あたりはごく普通の市街地だ。
関原2丁目の停留所から進行方向に少し行くと、中曽根神社入り口の石碑が立っている。住宅地や町工場の間の道を入って左に折れると、中曽根神社がある。このあたりが城の主郭(本丸)跡だ。といっても石碑があるだけで、城の遺構があるわけではない。
中曽根城は、荒川の氾濫原の中にある微高地を利用した完全な平城だった。戦国時代には山城も丘城ばかりでなく、平城もたくさん築かれたが、乱世が終わるとみな廃城になる。山城や丘城は山林となって残ったが、平地は開墾が進むし、近代に入れば市街地化するので、次々と姿を消していった。
中曽根城も、そんな「消えた平城」の一つで、現在では市街地化が進んで微高地の痕跡を追うことも難しくなってしまった。それでも発掘調査で堀の一部が見つかっているし、地中レーダー探査によって堀の痕跡らしい反応も広範囲で見つかっている。
それらのデータを総合すると、南北250メートル、東西400メートルほどの範囲に、堀で囲まれた曲輪がいくつも広がっていたらしい。どうやら、かなり本格的な平城だったようだ。これは平城としてラッキーな方で、先述した石浜城などは、所在すらわからなくなっている。近世以降、荒川(隅田川)の流路が何度も大きく変わった上に、関東大震災や空襲で一帯が焼け野原となり、昔の様子がわからなくなってしまったためだ。
武蔵千葉氏の動向から見て、この城が築かれたのは戦国時代の始め頃(1460年代か)と推測できるが、誰が居住したのか、いつまで使われたのかは、わからない。武蔵千葉氏が北条氏に従属した頃(1520年代か)からしばらくは、この場所は北条氏勢力圏の最前線に当たったはずだ。南北250メートル、東西400メートルもの城域は、その頃に成立したものだろうか。
現地を訪れる方は、掲載した写真を参考に歩けば足の裏から城域の広さを感じられるはずだ。それにこのあたりは、真新しい住宅地の中に昔ながらの町工場や商店が、エアポケットのように残っていたりして、つい歩をゆるめてしまう。
形も歴史もはっきりしないのだけれど、戦国乱世の一時期、確かにそこに存在していた、中曽根城。そんな城の、おぼろげな輪郭を追い求める城歩きには、名城めぐりの旅とは違う楽しさがある。
[参考図書]東京都教育委員会編『東京都の中世城館(主要城館編)』(2006)