被害地の「精神的被害」

 現在、出没地域では威嚇音、轟音玉(手投げ式の動物追い払い用花火)などがクマ撃退に使われているが、忍者みたいなクマといつ遭遇するか分からないという恐怖は、当地に暮らしている者にしか理解できない。

2010年9月、金沢市の住宅街に現れたツキノワグマ2010年9月、金沢市の住宅街に現れたツキノワグマ(写真:共同通信社)

 デヴィ夫人のように、クマの射殺を可哀そうだからやめてと言い、動物愛護を優先させるべきだと主張される方がおられる。しかしクマの危害を受けた地域では、「精神的被害」も含め、クマと人との軋轢が深刻な社会問題になっていることを忘れてはいけない。

 TVなどに愛らしい子グマやウリボウ(子猪)、それにバンビがしばしば登場したり、キャラクターグッズでもくまモンたちが人気だ(ちなみに九州ではクマは絶滅したとされている)。おかげで野生獣を身近に感じることができるようになった。

 見れば可愛く、それを愛でたくなるのが人情だ。「その動物を殺すなんてもってのほか!」「可哀そうだから守ってやって……」と発するのはごく当たり前の感覚である。

 憂うべきは、そのお茶の間感覚がいつでもどこでも正しいと思い込んでしまうことだ。

 アフリカのサファリ遊覧車からフラフラと降り、野生動物に近づこうとして襲われた悲劇をNGOの方から聞いた。被害に遭うのは動物園感覚の日本人がとりわけ多いというが、ニュースにはなっていない。

 現行の動物愛護管理法だって、動物の福祉と愛護がごちゃ混ぜになってしまっている。

 2023年度、全国で4204頭のクマが駆除(環境省:9月末暫定値)されたが、この行為を即刻中止すべきだとの意見も一部である。悪いのは本来臆病なクマではなく、生息地に自動車道路をつくったり、リゾート開発をした人間が悪いのだと。

 大切なことは、“クマと遭遇してしまう場所に暮らす人たちがフツーの暮らしを続けていくには”という視点ではないか。都会の人工的環境に居て、そういった場所を遠くに見ながら評論するのではなく、そこに暮らす人々の思いを尊重していくことである。