春日大社など奈良公園周辺に生息する、国天然記念物の「奈良のシカ」。「神鹿」とも呼ばれ、一千年にわたり地域社会と共生してきた。そんな「神の使い」に対して虐待があったのでは、という疑惑が浮上している。
問題になっているのは一般財団法人「奈良の鹿愛護会」が管理する「鹿苑」内でのこと。奈良の鹿愛護会は負傷したシカの救助や治療、保護をはじめ、奈良公園に生息するシカの頭数や行動調査を行うなど、奈良のシカの保護管理の業務を一手に担う「シカの番人」的存在だ。
鹿苑では妊娠したメスジカや子鹿を保護するほか、オスジカの角切りなども行っている。虐待があったのでは、と疑われているのは、農作物被害を起こしたシカや人間を攻撃したシカを収容する「特別柵」と呼ばれるエリアだ。特別柵に収容されたシカは奈良の鹿愛護会が「生け捕り」した個体が中心。基本的に、生涯を柵の中で過ごすことになっている。
奈良の鹿愛護会の獣医師が、特別柵ではエサやりが不十分で餓死するシカが続出しているなどとして虐待に当たると告発。奈良の鹿愛護会は虐待の事実はないと真っ向から反論している。
獣医師による告発を受けて奈良県と奈良市は特別柵の現場調査を実施した。11月6日に奈良県の山下知事は「虐待があったかどうか県では判断はできない。しかし、特別柵は国際獣疫事務局が定める『動物の5つの自由』のすべての指標に抵触しており、不適切な収容環境だと言わざるを得ない。改善が必要だ」とコメントするなど、今後のシカ管理のあり方を検討する方針を示した。
そもそも、「虐待」が疑われた背景には、どのような事情があるのか。野生動物の保全生態学が専門で、奈良県が開く「奈良のシカ保護管理計画検討委員会」で委員も務める北海道大学大学院・立澤史郎特任助教に聞いた。
(湯浅 大輝:フリージャーナリスト)
野生動物への「虐待」は簡単に判断できず
──6日、奈良県が記者会見を開き、「虐待問題」について調査結果を発表しました*1。どのように受け止めましたか?
立澤史郎・北海道大学大学院特任助教(以下、敬称略):特別柵の飼育環境を改善するという点、および、それが県と奈良の鹿愛護会の共同責任であると知事が明言した点は評価できます。ただし、話が「特別柵」に終始し、それが天然記念物「奈良のシカ」の保護にどうつながるか、なぜシカが次々に保護区の外に出ていくのかなど、本質的な課題が見えているかどうか不安になる会見でした。
また知事が「これまで県は奈良の鹿愛護会からの報告を聞いていなかった」と発言した点は訂正すべきだと思います。「特別柵で収容できるシカの数が限界を迎えている」という問題は過去の県の委員会でも話題になっていました。
──そもそも、奈良の鹿愛護会の獣医師による虐待の告発について、どのように見ていますか。
立澤:まずはっきりさせておかないといけないのは、奈良のシカは飼育動物(ペット)ではなく野生動物だという点です。もちろん飼育下ではシカなどの野生動物も動物愛護管理法に基づいた適正な扱いが求められますが、イヌやネコと違って苦痛や嫌悪、適正な健康状態の判断が難しく、簡単に「虐待か虐待でないか」を判断することはできません。
餌の量や混み具合で言えば、もっとひどい環境でシカを飼育している施設はいくつもあります。もちろん、だから問題ないとは言えませんが、各メディアで出回っている「脱毛し痩せこけたシカの姿」だけを見て「虐待だ」と糾弾するのも早急だと思います。