津田塾大学の創立者として知られ、2024年に発行が予定されている新デザインの5000円札に描かれることになった津田梅子。6歳で米国に留学した津田は、8歳でキリスト教の洗礼を受け、現地ではハイスクール・レベルの市立女学校に通った。その後、再留学を経て、女性の教育機会拡大に力を入れるようになった背景には、津田の米国人女性との深い交流もあった。産業革命期における日米の女性交流史を描いた湯澤規子・法政大学教授の新著『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』から紹介する。
(*)本稿は『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(湯澤規子、KADOKAWA)の一部を抜粋・再編集したものです。
要職に就く男子留学生たちとは対照的な扱い
1871年に日本からの最年少留学生として6歳の時にアメリカへ渡り、11年を経て17歳で帰国した津田梅子。彼女は津田塾大学の創立者で、日本の女子教育に多大な功績を残したことで知られている。だが、彼女の帰国直後の葛藤や、再留学の経緯など、当時の女性と学問をめぐる社会状況との関わりについては、これまであまり注目されてこなかった。科学者としての津田梅子の足跡を追った古川安(ふるかわやす)の仕事によって、近年ようやくその詳細が伝えられるようになったばかりである*1。
*1:古川安『津田梅子 科学への道、大学の夢』東京大学出版会、2022年
津田梅子はワシントンDC近郊のジョージタウンに暮らすチャールズ・ランマン家に預けられ、11年間をアメリカで過ごした。ランマンは、森有礼のもとで書記をしていた人物である。梅子は8歳で自ら進んでキリスト教の洗礼を受け、ハイスクール・レベルの市立女学校に通い、多くの学びと経験を得た。
ところが、国費留学生としての使命感を持ち、帰国後は教師になろうと考えていた梅子を待っていたのは、女性教師として働く場所がない、という日本社会の現実であった。それは速やかに要職に就いていく男子留学生たちとは対照的な扱いであり、梅子はそのことに失望したという。
梅子はその後、いくつかの職を転々としつつ、1885(明治18)年9月に学習院の女子部が独立して開校した華族女学校の教師となることができた。けれども、同校で女子学生たちと向き合う中で、アメリカ合衆国と比べて女性の社会的地位が低い現状と、女性たち自身がそのことをあまり問題と思っていないことに気づき、梅子は戸惑いを隠せなかった。
1885年9月といえば、明治女学校が開校したのとちょうど同じ時期でもあり、またその最初の教師に津田梅子の名前があったことを思い出すと、この二つの学校の違いを梅子がどのように感じていたのかは、興味深いところである。
華族女学校に勤めて5年目に入る頃、梅子は大学教育を受けるために、再びアメリカへの留学を目指すようになった。英語だけを教えていることにも寂しさがあった。梅子は次のように語っている。
“単なる英語教師で満足していることは出来ぬ。もっと魂をうち込み得るような仕事がありそうなものだ。(中略)何か専門の研究をして見たい。いまの日本の婦人には、学者というような人もいない。婦人にそういう素質があるか、わたしに思い切った研究が出来るか、また学者になることがわたしの使命であるか│そういうことは、いまのわたしにはわからない。しかし多かれ少なかれ、持って生まれた天分を伸して見たい。女なるが故に学問をしてはならぬというはずはあるまい*2”
*2:吉川利一『津田梅子伝』津田塾同窓会、1956年、172〜173ページ