(歴史ライター:西股 総生)
実力でしか手に入らない、天下人の権力
「家督」というと、われわれは漠然と「家長の立場」をイメージする。でも、戦国時代の「家督」とは、もっと生々しいものだ。実質的には「家の所領・財産を相続・支配する権利」を意味していたのだ。つまり、清洲会議における第2議題の「織田家家督問題」とは、織田家領を誰が相続し支配するか、ということなのである。
歴史の本を開くと、「天正10年の戦国大名勢力範囲」みたいな図が載っていて、日本の中心部が織田家の勢力範囲として示されている。けれどもこれは、信長が個人的な実力で押さえていた織田天下グループの営業範囲であって、本社資産としての織田家領は、尾張・美濃の2か国だ。
この尾張・美濃2か国は、筋からいったら三法師が相続するわけだが、いかんせん子供だから資産管理まではできない。そこで、誰かが「後見人」の立場で、実際の資産管理を行う必要がある……これは、どう考えてもおいしい立場ではないか。
そこで、もともと第1議題で反目していた羽柴秀吉が信雄を、柴田勝家が信孝を押す展開になった。「織田家家督について」でモメたのは、以上のような事情によるものだ。
結局この件は、尾張については信雄、美濃は信孝が「後見人」となる形で決着した。要するに、三法師が成人するまでは、信雄が尾張を、信孝が美濃を実効支配するわけだ。落とし所としては、まあ妥当といえたが、会議参加者の中にシコリが残るのは避けられなかった。
また、第1議題の附帯条項として、秀吉の所領だった北近江の長浜領が、勝家に割譲されることとなった。戦利品をガッポリせしめた代わりとして、勝家に花を持たせて納めたかっこうだ。未亡人として逼塞していたお市の方が勝家に嫁いだのも、戦利品山分けの一環であり、政治的な落とし所だったことがわかる。
ただし、清洲会議ではどうにも解決できない問題があった。それは、天下人信長の後継者をどうするか、だ。こればかりは、信長が個人で振りかざしていた権力だから、話し合いでは引き継ぎようがない。天下人としての権力は、誰かが実力で手に入れるしかない。
清洲会議ののち、秀吉vs.勝家、信雄vs.信孝の対立は、次第に隠せないものになっていった。ことに、信長の葬儀を秀吉ー信雄ラインで仕切ったことが、勝家ー信孝派を怒らせたし、秀吉が山崎の戦場跡に近い山崎城を拠点に活動したことも、勝家らを刺激した。
発火点となったのは、落とし所だっはずの長浜領である。
越前にいる勝家が雪で動けないのを見越した秀吉が、実力行使に出て長浜領を一方的に奪還してしまったのだ。この結果、越前と長浜との中間点で起きたのが賤ヶ岳合戦だ。
この戦いに勝利した秀吉は、一気に織田家中生き残りで最大の勢力へと躍り出る。そして、敵対する武将たちや信孝・信雄らを次々と追い落とし、天下人の座へと登り詰めてゆくのだ。
清洲会議とは山崎合戦の勝ち組による戦利品山分け会議であり、この会議メンバーの生き残り競争を勝ち抜いたのが、秀吉だったわけだ。その意味で、秀吉による天下取りのロードマップは清洲会議を出発点としていた、といってよいのである。
[参考図書] 「本能寺の変はなぜ起きた?」「中国大返しはどうして実現できたのか?」などなど、戦国武将や天下統一をめぐるリアルを知りたい方は、拙著『戦国武将の現場感覚』(KAWADE夢文庫)をご一読下さい。