清洲城の模擬天守 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「清洲会議」の最初の議題は?

 本能寺の変で織田信長・信忠が横死し、それにつづく山崎合戦で明智光秀が滅亡したのち、織田家の宿老達は尾張の清洲に集まって会談をした。世にいう「清洲会議」である。

「清洲会議」という呼び名から多くの人は、織田家のお歴々が一堂に会して侃々諤々の議論やら、多数派工作を繰りひろげた情景をイメージする。いや実際、そうした情景を面白おかしく脚色してできた映画もあった。

 しかし、実際の「清洲会議」はそのようなものではなかった。まず、出席者は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の四人。これに、信忠の弟である信雄と信孝が立会っただけだ。

本能寺跡。現在は市街地となっており、本能寺そのものは別の場所に移転している

 では、なぜメンバーがこの四人+信雄・信孝だったのだろうか?

 本能寺の変が起きたとき、織田(神戸)信孝・丹羽長秀は大坂近辺にいて、四国侵攻を準備をしていた。また、池田恒興は、摂津近辺に所領を持っていた中堅クラス武将の代表格だった。

 そこへ、秀吉がものすごい勢いで取って返してきたので、合流して山崎で明智軍と相まみえることとなったわけだ。山崎合戦は秀吉が光秀を討った戦い、というイメージが強いけれども、立場からいえば明智討伐軍の総大将は信孝だったことになる。

山崎合戦のとき光秀が本陣を置いた京都府長岡京市の恵解山(えげやま)古墳

 また、謀叛人を討伐したとなれば、謀反人から没収した所領・財産の処分が必要となる。この場合、謀反人討伐に功のあった者から優先的に論功行賞に預かるのが、武家社会の基本ルールだ。これで、ピンと来ただろう。