(町田 明広:歴史学者)
後期水戸学の重要性とは
幕末がいつから始まったのか、様々な意見が存在する。筆者は、天保期(1830~1844)から始まるものの、目に見える形としては、ペリー来航(1853)であろうと考えている。
その天保期以前から、外国船が日本近海に出没し始めていたが、幕府は特段の対策を見出すことができなかった。また、数々の天変地異(地震・火山噴火・冷害など)による社会不安への対応もままならなかった。これらが積み重なって、幕府の武威(軍事力に裏打ちされた威光)や幕府への信頼は大きく失墜して、幕末期を迎えていたのだ。
こうした幕府権威の凋落を前にして、武士層をまとめ上げて挙国一致の体制を構築し、ウエスタンインパクトに対応しなければならないという危機感が醸成されていった。中でも、御三家である水戸藩によって、思想的に幕末までに準備されたのが後期水戸学であった。武士層に広く行きわたった後期水戸学について、今回から3回にわたって、多角的に論じていきたい。
朱子学から生まれた経世論
後期水戸学を理解するために、そこに至る思想(学問)の系譜についても言及することが必要であろう。そもそも、幕府によって受容されたのは、儒学の一派である朱子学であった。
その理由を紐解くと、朱子学は極めて世俗的な倫理観を持っており、上下の身分秩序を重んじて礼節を尊んでいた。すなわち、江戸時代を貫く封建制度に適した教義を備えていた。こうした朱子学の理念によって、幕府は思想的に武士の統制を図って成功を収めたのだ。
一方では、朱子学は世を治め人民を救うこと、すなわち「経世済民」の具体的な政策などを論じて、為政者の覚醒を促す経世論を生み出した。為政者とは、大名を指し示す場合ももちろんあるが、実際には将軍以下、幕政を主導した老中をはじめとする幕閣を指すことが多かった。つまり、幕府に対する警告論と言い換えることも可能であろう。