(町田 明広:歴史学者)
●薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか①
●薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか②
●薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか③
郷中教育の申し子・西郷隆盛
前回まで、薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのかについて、3回にわたって扱ったが、その中で画期的な教育システムとしてご紹介した郷中教育からは、綺羅星のような偉人たちを輩出したことは間違いない。その中でも、1人を挙げるとなれば、西郷隆盛であろうか。
西郷の名前を知らない読者はおられないと思うが、その理解は島津斉彬によって登用された以降ではなかろうか。今回は、意外と知られていない20代の活躍を中心に、斉彬に発見される前の西郷を、その生い立ちから追ってみよう。まずは、西郷の名前や家族といった基本事項を確認してみたい。
西郷のさまざまな名前
西郷隆盛は文政10年(1827)12月7日、鹿児島城下の下加治屋町で小姓組勘定方小頭であった西郷吉兵衛の長男として生まれた。ちなみに、島津久光より10歳年下、大久保利通より3歳、小松帯刀より8歳年上であるのだ。
西郷の幼名は小吉、通称は吉之介・善兵衛・吉兵衛・三助・吉之助と変えているが、最も活躍した時期は吉之助を名乗っていた。奄美大島に身を潜めた時は、菊池源吾・大島三右衛門とも称している。
諱(いみな)は隆永であったが、明治2年(1869)、宮内省が諱を問い合わせた際、盟友の吉井友実が誤って西郷の父の諱「隆盛」と届け出たため、それ以降の諱は隆盛を使用したとされる。号(雅号)は止水、それから私たちがよく目にする南洲であり、謚(おくりな)は南州寺殿威徳隆盛大居士(なんしゅうじどのいとくりゅうせいだいごじ)であった。ここでは、煩雑を避けるために、「隆盛」で統一したい。
なお、一時的と言っても、菊池姓を名乗った由来として、西郷家の祖先が南北朝時代の南朝の忠臣である菊池武光の後裔とされるためで、武光の子孫が熊本県菊池郡の増水城に拠点を持ち、代々西郷姓を名乗ったという。時代は下って、元禄年間(1688~1704)に至り、西郷九兵衛が島津氏に仕えたことから、城下士となったのだ。
西郷が一時期とは言え、菊池姓を名乗ったことは、しかも、それが大島時代であったことは、その時点での西郷の心情は、島津家に対する忠誠よりも、朝廷に対する忠臣たらんとする思いが強かったのかも知れない。
ところで、当時の書簡には年号はまず書かれず、日付すら書かれていないものもあり、年代を比定することが極めて難しいことが多い。もちろん、内容で判断するのだが、重要な手がかりとして、名前がある。西郷も名前が幾つもあり、年代比定に役立つことがある。