三河一向一揆で一揆方の拠点となった本證寺(写真:PIXTA)

 新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっているNHK大河ドラマ『どうする家康』。第9回放送分では、家康が家臣たちの裏切りを乗り越えて一向一揆に立ち向かいながらも、自身のリーダーとしてのあり方を問う。そんな家康の転機となる放送内容だった。第9回の見どころポイントや素朴な疑問について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

本多正信は本当に一向一揆のキーマンだったのか

 決断に迷いを見せれば「頼りない」と言われてしまい、それならばと、自分の感覚を信じて突き進めば「意見を聞いてくれない」と不満が出る・・・。全くもって組織のリーダーというものは、いつの時代も難しいものだ。もしかしたら、あの徳川家康だって、若い頃はそんな葛藤に苦しんだのではないか──。

 大河ドラマ『どうする家康』の面白さは、若き家康を「気弱なプリンス」として描き、その成長を丁寧に描いていることだ(前回記事「『どうする家康』リーダー然としてきた家康が家臣の名をやたらと間違えるワケ」参照)。

 三河での一向一揆は、家康の政策が原因で起きたとされている。家康は、それまで一向宗の寺に認められていた、課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入」(しゅごしふにゅう)の特権を無視。強引に年貢を取り立てたところ、怒れる一向宗徒たちが立ち上がることになった。

 第9回では、冒頭から家康が意気消沈している。自分の家臣から一揆側につく者が続出したからだ。最もショックだったのは、一向一揆側の軍師として、本多正信が暗躍していると知ったことである。

 実際には、本多正信が一向一揆において、そこまでのキーマンだったという記録はない。ただ、裏切った酒井将監(忠尚)の城に立てこもった一人として『三河物語』に「本多弥八郎」(本多正信のこと)の名が連ねられている。『三河物語』とは、江戸幕府の旗本・大久保彦左衛門忠教が、子孫に書き残した三河武士団の姿を示す文献である。どうも本多正信が一揆側に味方したことは間違いなさそうだ。

 本多正信が、のちに家康の側近として活躍することを思えば、意外ではあるが、そんな過去を持つ二人だからこそ、結びつきが強くなったのかもしれない。第9回では、そんな二人の「相性の良さ」が最終的には暗示されており、非常に印象深いものがあった。