文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー

本證寺

本多正信とはどんな人?

 大河ドラマ『どうする家康』では、松山ケンイチ演じる本多正信が、家康に叛いて、市川右團次が演じる空誓上人の軍師となり、話題を呼んだ。

 正信は、のちに家康の片腕となるのは周知のとおりであるが、彼はどのような出自をもち、どんな人生を歩んだのだろうか。

本多正信像

 正信は天文7年(1538)に、生まれたとされる。天文11年(1542)生まれの家康より4つ年上だ。

 出生地は諸説ある。三河国の小川(愛知県安城市小川町)で誕生したと伝わるが、西条城(愛知県西尾市)とも、駿河久米(「久米」という地名は駿河に存在しないため、場所は不明)ともいわれる。

 曾祖父の本多忠正は松平清康(家康の祖父)に、父親の本多俊正は清康と飯田基祐が演じた松平広忠(家康の父)に仕えた。

 正信自身も、新井白石著の歴史書『藩翰譜』に「童なりしより徳川殿に仕ふ」、「御戦初めの日より所々の軍に従ひ参らせずといふ事なし」とあるので、子どものときから家康に従っていたのかもしれない。

 正信の妻は、小笠原将監某の娘(『本多系譜』)で、法名を「桂芳院殿永昌大姉(釈尼妙受とも)」という。彼女と正信の間には、男三人、女二人の子どもが生まれたといわれる(安城市歴史博物館『特別展 安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信』)。

 また、正信は浄土真宗本願寺派の熱心な門徒であり、家康の三大危機の一つに数えられる「三河一揆」では、一揆勢に与したとされる。

 

家康に叛いて、三河を出る

 ドラマでは空誓の軍師であった正信だが、『三河物語(徳川家康・秀忠・家光に仕えた大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した自伝)』によれば、永禄6(1563)年から翌永禄7年(1564)にかけて起きた三河一揆の際には、酒井忠尚が城主である上野城(愛知県豊田市)に籠もったという。

 酒井忠尚は松平氏譜代の重臣で、永禄6年6月以前から家康に反旗を翻していた。

 正信が上野城に籠もった理由は定かでない。

 一揆が平定されると、正信は三河を後にした。正信、27歳のときのことである。

 三河を出た正信はどこへ行き、何をしていたのだろうか。