謎の20年間
三河を出てからの正信の事績は、約20年もの間、不明である。
だが、京都へ行き、そこで「戦国の梟雄」と称される松永久秀に、「徳川からくる侍を少なからず見ているが、その多くは武勇の輩だ。だが、正信だけは、強からず、柔らかならず、また卑しからず、ただ者ではない」と評された(『藩翰譜』)。
また、本願寺第11代宗主の顕如の命によって、加賀一向一揆に派遣され、吉原光夫が演じる柴田勝家の軍勢と戦った(『富樫観知物語』)など、色々な逸話が残っている。
なお、正信は妻子を三河に残してきたようだ。『三河物語』によれば、小手伸也が演じる大久保忠世が、正信の妻子の世話をしていたという。
やがて、正信は家康のもとに帰参するが、その際も大久保忠世の取りなしにより、家康の鷹匠になったとされる。
なお、江戸幕府の編纂による大名・旗本・諸家の系譜集『寛政重修諸家譜』では、三河を去った後は、加賀国(石川県)に住み、高木九助広正の斡旋で帰参したと記されている。
帰参後、家康の側近に
正信の帰参の時期も諸説があり、明らかではない。
だが、天正10年8月14日付の家康の文書の発給に関わっていたことから、帰参はそれ以前で、このときにはすでに家康の信頼を得て、側に仕えていたと思われる。
『藩翰譜』には、「是よりして後、徳川殿の御覚え大方ならず。常に御側に伺候して軍国の議に与る」とあり、帰参後は家康の側近として軍略に関わったようだ。
正信と家康の関係は極めて良好で、「水魚の交わり(水と魚とのような、切り離せない大変に親密な交)」と称されるほどであった。
二人は心を開いて語り合い、策謀を巡らせたという。
また、正信の親族である文人である石川丈山の話によれば、正信は家康の命令が納得できるものであれば大いに褒め、そうでない場合は寝たふりをするので、それを見た家康は考えを改めたという。
いかに家康が正信に信頼を寄せていたかが、伝わるエピソードである。
だが、正信が三河を離れている間に家康のもとで命がけで戦ってきた家臣たちの中には、正信が家康から評価されることに、不満を感じる者も少なくなかったといわれる。