徳川秀忠の補佐に

 天正18年(1590)、ムロツヨシ演じる秀吉の北条氏討伐(小田原合戦)により、小田原北条氏が滅びると、家康は関東に移封となり、正信も相模国玉縄(神奈川県鎌倉市)を与えられた(上野国、あるいは上総国八幡、下総国佐倉とする説もある)。

 その後、家康は伏見や大坂などを活動の拠点としたが、正信は同行しなかった。

 正信は家康の嫡男の徳川秀忠の配下として、関東の経営および、江戸城下町の普請を行なっていた思われる。なお、このころの正信を「関東惣奉行」とみる説があるが、それを裏付ける史料はないという(安城市歴史博物館『特別展 安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信』)。

 正信の江戸普請に関しては、川越藩主・松平周防守の家老である石川昌隆(号 正西)が記述した『聞見集』に意外なエピソードが残っているので、ご紹介しよう。

 

正信の意外な?一面

『聞見集』によれば、家康が関東に入国したころ、江戸の普請の指図は、すべて正信が行なっていた。

 正信は普請場に、毎朝4時~5時に出かけていた。そのため諸大名もまだ夜も明けない暗い中を、提灯を下げて普請場に向かわなければならなかった。

 さらに、正信は雨が降っても、風が吹いても、雪の日でも怠けなかったため、皆苦労したという。

 また、正信の屋敷は貧相で、着物も炬燵布団のような粗末な木綿を纏っていたという。

 ドラマでは些か胡散臭い雰囲気の正信であるが、意外にも仕事は真面目で勤勉、生活は質素だったようだ。