父子で権力の中枢に

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、正信は秀忠に従った。

 慶長8年(1603)に征夷大将軍に就任した家康は、僅か2年で秀忠に将軍職を譲り、正信を秀忠付の年寄衆とした。

 秀忠の政務運営は正信と大久保忠隣(大久保忠世の嫡男)、土井利勝を中心に行なわれることになる。

 慶長12年(1607)、家康が居城を駿府に移すと、家康の年寄衆として正信の嫡男・本多正純も駿府に移り、外交から内政までさまざまな政策に関与した。

 正信は息子とともに、父子で権力の中枢を担ったのだ。

 

家康のあとを追うように

 慶長19年(1614)、正信と並ぶ権勢を誇った大久保忠隣が改易された。

 この改易は正信の陰謀だったという噂も流れたようだが、真相は明らかではない。

 この年の10月には「大坂冬の陣」が起き、翌年の4月には「大坂夏の陣」が始まり、5月に豊臣氏は滅亡した。

 同年9月に正信は体調を崩し、10月下旬に悪化した。78歳の正信は死を覚悟したようだが、翌元和2年(1616)4月17日、4歳年下の家康が先に亡くなった。

「水魚の交わり」と称された家康を失った正信は、水を失った魚と同じだったのかもしれない。

 家康の死のから約2ヶ月後の6月7日、正信も家康のあとを追うように、息を引き取った。