(歴史ライター:西股 総生)

平地の方が領国経営に便利だった?

 戦国時代には山城が主流だったが、近世には平城や平山城が主流になった・・・などと、歴史の本にはよく書いてある。だが、この説明は事実に反する。戦後時代には山城も平城もたくさんあったが、近世に入るまでに中小の城が廃城になっていった結果、相対的に平城や平山城が主流になった、というのが真相だ。

 同様に歴史の本では、近世になると領国経営に便利な平地に城が移される、などと説明される。その代表例として挙げられるのが、毛利氏の場合だ。毛利元就が本拠とした吉田郡山城は、安芸国の山間部(広島県安芸高田市)にある山城だったが、孫である輝元の代に太田川河口部のデルタ地帯に広島城を築いて、本拠を移転している。では、平地の方が領国経営に便利だったのだろうか?

萩にある毛利輝元像

 輝元が家督を継いだ頃の毛利氏の領国は、安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・備中、つまり現在の広島県・山口県・島根県と岡山県の西部くらいの範囲である。地図を開いて確認してみよう。吉田郡山城は、この版図の中央に位置していることがわかる。

「戦略重心」という観点から考えるならドンピシャの場所であり、領国経営にはむしろ好都合だったはずだ。逆に、太田川の河口デルタに位置する広島は、当時の常識から考えたら不毛の地でしかない。

 ではなぜ、輝元が本拠を広島に移したのかというと、豊臣政権に服従したからだ。天下統一を目ざし、その先に大陸侵攻を見据える秀吉に服従すると、毛利軍は「豊臣軍団の毛利師団」として位置づけられることになる。

広島城は太田川の河口デルタに築かれた

 秀吉から、九州へ出陣しろと命ぜられれば九州へ、朝鮮を攻めるとなったら海を渡らねばならない。そのためには、迅速に動員体制を整えて出陣できる場所に本拠を置く必要がある。太田川の河口デルタに強引に城と城下町を建設したのは、そうした戦略的必要性からだったのだ。